怠惰

怠惰の愚かさ。
怠惰の素晴らしさ。

 
怠惰の愚かさというのは「変わることを望まない」
という一点に尽きるのではないか。心の有り様。

 
学術書で、何かと錯覚めいた記述があった。
精神について解く本は、身体的なそれと同義ではない。

 
身体的な怠惰は何の問題もないのだ。
だらだらしたりのんびりしたりするのは、素晴らしいことだ(‘ ‘*)
色々なものが視えるようになるから。
流されるのも素晴らしいことだ。相手の思惑がよく感じられるから。

 
何もしないで、心を感じ取る。
今まで以上に、物がよく視えるようになるる。

おひるねおひるね(。◕ ∀ ◕。)ノ


むかしのこと

ずっと仕事に浸ってた。
自分たちの生活を何とかすることばかりで。

PC、

昔は、遊び道具だった。
創作するために、欠かせないものだった。
同じ志をもつ、ネットの仲間たち、クリエーターさんと、交流するためのツールだった。

もう、10年も前の話だ。

 

いつしか、時の流れの中で。
私は、社会人に。働かねばならない身となった。
会社勤めで、ほとんとPCに触れる時間が無かった。
音を作ることを、忘れかけていた。このままではダメだった。

だから、会社をやめた。
働いてばかりの生活は嫌だ。

だから、自分でできる仕事を、一から見つけようとした。
作曲をお仕事とすること、一時期目指したこともあった。

だけど、これは僕には向いてない、自分が音を仕事ではなく、好きなように描きたいから。

いつしか、パソコンのスキルを活かした様々な業種にチャレンジするようになり
音楽を作ること、小説をかくことを、忘れてしまった。

PCに触れれば、やらなければならないこと。
日々の生活の糧を、生み出すことに精一杯だった。
創作の余力を見いだせなかった。

1年に数回、思い出したように作曲ツールを触ることもあったが
OSをWinからMACに移したこともあり、作曲当初愛用してたサクラMMLが普段使うPCでは動かない、時たま置き去りにされた古いパソコンを、立ち上げるんだ。

今でも思い出す。
サクラMMLに触れると、楽しかったあの頃。
皆と曲の完成度を競ってた時の頃、自分の音を精一杯表現していた頃。

今も此処にある。
あの頃の感覚。

私は、曲作りを、あの頃の感覚の延長で、していきたいと思ってる。

 
 
物語を描いて、そこに音を乗せて、
巡る箱庭の物語も、その周りを巡る、様々な物語の背景を。

音で描いていく。
あの頃。

むかしのあの頃と、おなじ感覚で。

 

もう、時間も余裕もできてきたんだ。
お願い、またあの頃の感覚を思い出して。

あの頃、同じ場所で語り合った仲間たちと、彼らのような仲間たちと、交流しながら、また自分の音を描き続けていきたい。

 

私は、僕は、気づいたら、何もなくなってたんだ。
人生の張り合いを、、、本当に自分が成し遂げたいことを。
あの頃の感覚、あの頃の感覚が、思い出させる。

 
私はあの時、すでに私自身だった。
私は再び、私自身になる。本来の形に。

あの頃の感覚が、蘇ってくる。


自身の想いを聞かせて

人間が怖い
というか嫌われるのが怖い。
他人から嫌われるのが嫌で、嘘の仮面を今日被る。

嘘の仮面を自分が被るから、
他人のことも、仮面を被った偽りの表情として視えてしまう。

そんな中で、自分は正しくあろうとして、何が何なのか分からなくなった。

 

この日、おそらく彼女の居る世界に、僕も居た。
彼女と、彼女のお父さんと、彼女のお母さんと、自分とで喫茶店に居る。
朝ごはんに誘われ、昨夜少し彼女と揉めた分の仲直りと、家族でそのフォロー。

この時、彼女のお父さんから直々にアドバイスを受け、最初に周りを受け入れることが正解の第1ステップだというのを納得して聞いていました。

その時、そこで思考がキャパオーバーした。
それを受け入れる時、自分が何が何だか分からなくなってしまった。
(まぁ、「周り」の有り様自体が、最初よく分からないものだし)

 

。。。。。

家に帰り着いた後、買ったばかりのオーブンの、ガラスの外面を割ってしまった。
ちょっと躓いただけで、ボロボロと崩れ落ちてしまった。
これは普通のガラスの割れ方じゃない、脆すぎる!

外面が割れた今、中面が丸見えだ。

 
 
混乱した。

高かったのに、前回も初期不良ですぐ交換だったのに、既に二度手間なのに。
結局1回も使わないまま、外面が割れた状態になってしまった。
また交換? これで3回目? しかも今度は自己負担?

。。。

。。。

 
このままで行こう(‘ ‘*)

うん、使える。
むしろこっちの方が安全じゃね?
(脆いガラスで覆うくらいならこのままで)

 

割りきった。

 

 

  
だが、ここで終わらない。

混乱した想いを拭えないまま、風呂に入る。
うちでは、洗濯も同時に手洗いだ。
今度はうっかり、ズボンに携帯を入れたままだった。
携帯が沈没した。すぐ引き上げた。
が、電源が入らなくなってしまった。
中のメモリはどうだろうか?

明日、確認せねば。

 

。。。

なんか、自分が何やってるか分からなくなった。
もしかしたら今日、そんなこんな干渉が起こったのかもしれない。
これ、彼女の見てる世界の一部なのかもしれない。

 
 

何をやっても上手くいかない。
タイミングを外される。
自分を分からなくさせられる。
ふんだり蹴ったり。
それでも必死にあがく。泥沼。

なぜだ!

今は動くべきじゃないことを、時が教えてくれている。
今は落ち着いて頭を休める時だと、何かが囁きかける。 

 

何がマズかったか。
振り返ればここか!?

100%「受け入れる」なんて、そうそうあり得ないんじゃないか。
個人ならまだ分かる、だが、対複数の場合は厳しい。

 
すべて「受け入れる」という言葉を鵜呑みにしたらば…
1:1の関係なら話し合いで調整可能だが
1:集団での場なら、自分が集団の波に飲まれる、自分自身を分からなくさせられるケースが殆ど。
複数人に対し、イキナリすべて受け入れるのは、個人の器じゃキャパオーバーになってしまう。

 

集団とは実は、身近な家族にもなるだろうか。父と母、と子ども。
この時、子どもに対し、父と母が結束してこうだ!っていうと、本当にそうだと信じて疑わなくなってしまうみたい。狭い常識、思い込みというのはこうして作られるのかもしれない。
自分は、こうでなければならないと、錯覚してしまうから。
 
待て! 自分の意志はどうなんだ? どこまで許容できるんだ?

 
生まれた時から、子どもは一人前の人間。
自分で考え、選択し、行動する力を持つ。
始まりの時から「ありのままに、自分の意志に忠実に生きる!」という
一つの存在としての、純粋な想いを宿している。

自分自身の想いを軸に、父や母の言い分をどこまで許せるか、どこで許容出来なくなるか。
線引を明確にすることが大切。それが「自分の意志」を護ること、「自分をしっかり保つこと」に繋がる。
 

外面が割れようと、周りの気分が沈もうと。
ありのままのその状態に意味を見出せる、想いの強さが培われる。

 
どんな時も落ち着いて、自分の想いを胸に、そのものを冷静に見つめるんだ。
ありのままに相応しい答えを、もう一度練り直す(o _ o。)

 

・・・・

ああ、あの子には自分の考えというものが見れない!

そうなんだ! 最初はあったはずのそれが。
複数人の場で言い聞かせることを繰り返すうちに、自分の考えが正しいかどうか分からなくなり、それならばいっそ、両親たちの教えが間違いなく正しいのだ!と思い込んでいるのかもしれない。そうやって自分の考えを捨てて来たのかもしれない。

一見、言い聞かせる言葉は正しい、が落とし穴。
この先自分は、どんなふうに生きればイイの?
親が付いていないと、何も正しくできなくなる。
だから、あんなに家族が大事。じゃあ、皆居なくなった後は???

 
今日の場合も、確かに彼女のお父さんの言い分は正しかったんだけど
あの時、あの場において、自分の受け取り用は「YES」しかあり得ない状況だった。

子ども(この場合は私)の意志関係なく「全てを受け入れろ」と同等の場面が織り成されてしまってた。意図せず(?) なっちゃってた。

あの場合は「彼女」を受け入れることが第一なのだからそれで正解なのだが、あの状況で「周りも」含めるとなると話が違ってくる。(その中には生命に関わる危険も孕む)

 
 
考えれば諸刃の剣だった。
結束した大人に対して反論のしようがない。

父と母が結束して子どもに言い聞かせるのは、子どもの意志を蔑ろにする、ひっっじょうに危険な行為だということを身をもって体感したんだ。それこそ「常識」に食い破られてしまう。

集団で言い聞かせることは、あってはならなかったんだ。
それを受けた本人は、他人本位な正しさを前にし、多数決でYESを矯正され、自分を殺されてしまうから。
 
 

どんな場合も言い聞かせるのは、1対1の場合でのみ許される行いなんだ。と考えさせられた。
これは、自分を育ててくれた母と、それからマスターが常にそうであった。
1対1の関係であるから、しっかりと教え、伝え合うことが出来ていた。

マスター、周りにお客さんや顔見知りの人が居る時は、私のどんな粗相も見て見ぬふりだ。
絶対に、マスターと私の二人だけの時。1対1で話し合う場合にのみ。
ある時の振る舞いに対し、お叱りの言葉やアドバイスをいただけていた。

そして必ず、後の言葉にこう続く

「〜〜、と俺は思うぞ」と。

 
一意見として、選択の自由を与えてくれていた。

 

 

ああ、自分は救われていた。
殆どの話し合いの場で、自分と親が対等だったと気づいた。

だから親がどんなに叱っても、怪訝な表情を見せても。
自分は自分の考えを、しっかり持てていたんだ。


素直が一番ね(自分の心にね)

共鳴、同調。憑依。テレパス。
に通ずる話、その2(‘ ‘*)

好きか嫌いか?
その2択。

 
視ようとする対象が、自分にとって要らん!とする場合。
それらは一瞥して素通りだ。

目に入らなくなるんだ。
元から無かったことになる。

 
幻は儚く(‘ ‘*)

ありのままの自分として、さらけ出すから
周りから、そういうものだと認められるようになる。

もう取り繕うことに悩まなくてイイ。
自分の好きなようにしてイイんだ。

 
好きなこと、興味を惹かれることなら
どれだけだって視ようと思える。

子どもたち。子どもたちがそう。
なんでもかんでも知りたいね。知りたい。

 

素直が一番ね。

好きなモノを好きなだけ。
嫌いなものは無視。それは存在しない。


創造物を視るときの視点

創造物を視るときの視点

ギャラリー展。

うりゃー(。◕ ∀ ◕。)ノ

って、観てきた。

たくさんの作品たち。

色んな方法で、想いを書き綴ってる。

そんな作品たち。

作品って、想いを形にすることなんだね。

スキルなく、誰でも描ける。

芸術ってそういうものなんだ。って思わせる。

 

 

帰りにアンケートの裏紙にて絵を描きました。

うむ、立派に作品だ(‘ ‘*)

 

芸術は、誰でも生み出せるな…

 

 

 

さて。

あらゆる表現物を視るときの視点。

 

私は、それらの作品たちは、作品として形になってるが

自分たちがお部屋やギャラリーを形作る時、この作品たちは素材…って感じた。

これらの素材に込められた思いや存在の言葉を組み合わせて、自分の棲みたいお部屋にアレンジしていく。

自分のお部屋に意味を持たせるための、方向性を持たせるための、作品を飾ることが素材になるんだ。と感じた。

だから、その作品に込められた思いと、それらを見て自分が感じる感性とが、どう感じるか、しっかりと見定めていくんだって思った。

素敵なお部屋、ギャラリーにするために。作品に込められた想いを、もっと活用していくために。

 

 

 
 
一方で、例の彼は言っていた。

「一瞬の中に永遠を感じるかどうか、が問題だ。」

このことが、作品の50年後、100年後に現われる。

本当の価値は、そこで計られる。

そんなふうなことを、綴っていた。

例の彼っていうのは、関西に在住してるであろう
存在自体が神がかってるような…彼の言葉なんだが…

参照元 ⇒ http://81978.diarynote.jp/200805051914390000/
(彼とは一体どんな方なんだ(‘ ‘*)…?

 

人づてに聞いた彼の言葉は、何だかあの青い瓶のように感じた。

あの日、あの時、あの場所の、一瞬の世界。一粒の想い。

想い出の一粒
 

あの瓶の中で、それは今でも輝きを放っている。

人の手に触れること無く、ずっとありのままの姿で、一粒の想い出は熟成していく。

 

私は本当の価値がどのようなものかを、何となく確信した。