自身の想いを聞かせて
人間が怖い
というか嫌われるのが怖い。
他人から嫌われるのが嫌で、嘘の仮面を今日被る。
嘘の仮面を自分が被るから、
他人のことも、仮面を被った偽りの表情として視えてしまう。
そんな中で、自分は正しくあろうとして、何が何なのか分からなくなった。
この日、おそらく彼女の居る世界に、僕も居た。
彼女と、彼女のお父さんと、彼女のお母さんと、自分とで喫茶店に居る。
朝ごはんに誘われ、昨夜少し彼女と揉めた分の仲直りと、家族でそのフォロー。
この時、彼女のお父さんから直々にアドバイスを受け、最初に周りを受け入れることが正解の第1ステップだというのを納得して聞いていました。
その時、そこで思考がキャパオーバーした。
それを受け入れる時、自分が何が何だか分からなくなってしまった。
(まぁ、「周り」の有り様自体が、最初よく分からないものだし)
。。。。。
家に帰り着いた後、買ったばかりのオーブンの、ガラスの外面を割ってしまった。
ちょっと躓いただけで、ボロボロと崩れ落ちてしまった。
これは普通のガラスの割れ方じゃない、脆すぎる!
外面が割れた今、中面が丸見えだ。
混乱した。
高かったのに、前回も初期不良ですぐ交換だったのに、既に二度手間なのに。
結局1回も使わないまま、外面が割れた状態になってしまった。
また交換? これで3回目? しかも今度は自己負担?
。。。
。。。
このままで行こう(‘ ‘*)
うん、使える。
むしろこっちの方が安全じゃね?
(脆いガラスで覆うくらいならこのままで)
割りきった。
だが、ここで終わらない。
混乱した想いを拭えないまま、風呂に入る。
うちでは、洗濯も同時に手洗いだ。
今度はうっかり、ズボンに携帯を入れたままだった。
携帯が沈没した。すぐ引き上げた。
が、電源が入らなくなってしまった。
中のメモリはどうだろうか?
明日、確認せねば。
。。。
なんか、自分が何やってるか分からなくなった。
もしかしたら今日、そんなこんな干渉が起こったのかもしれない。
これ、彼女の見てる世界の一部なのかもしれない。
何をやっても上手くいかない。
タイミングを外される。
自分を分からなくさせられる。
ふんだり蹴ったり。
それでも必死にあがく。泥沼。
なぜだ!
今は動くべきじゃないことを、時が教えてくれている。
今は落ち着いて頭を休める時だと、何かが囁きかける。
何がマズかったか。
振り返ればここか!?
100%「受け入れる」なんて、そうそうあり得ないんじゃないか。
個人ならまだ分かる、だが、対複数の場合は厳しい。
すべて「受け入れる」という言葉を鵜呑みにしたらば…
1:1の関係なら話し合いで調整可能だが
1:集団での場なら、自分が集団の波に飲まれる、自分自身を分からなくさせられるケースが殆ど。
複数人に対し、イキナリすべて受け入れるのは、個人の器じゃキャパオーバーになってしまう。
集団とは実は、身近な家族にもなるだろうか。父と母、と子ども。
この時、子どもに対し、父と母が結束してこうだ!っていうと、本当にそうだと信じて疑わなくなってしまうみたい。狭い常識、思い込みというのはこうして作られるのかもしれない。
自分は、こうでなければならないと、錯覚してしまうから。
待て! 自分の意志はどうなんだ? どこまで許容できるんだ?
生まれた時から、子どもは一人前の人間。
自分で考え、選択し、行動する力を持つ。
始まりの時から「ありのままに、自分の意志に忠実に生きる!」という
一つの存在としての、純粋な想いを宿している。
自分自身の想いを軸に、父や母の言い分をどこまで許せるか、どこで許容出来なくなるか。
線引を明確にすることが大切。それが「自分の意志」を護ること、「自分をしっかり保つこと」に繋がる。
外面が割れようと、周りの気分が沈もうと。
ありのままのその状態に意味を見出せる、想いの強さが培われる。
どんな時も落ち着いて、自分の想いを胸に、そのものを冷静に見つめるんだ。
ありのままに相応しい答えを、もう一度練り直す(o _ o。)
・・・・
ああ、あの子には自分の考えというものが見れない!
そうなんだ! 最初はあったはずのそれが。
複数人の場で言い聞かせることを繰り返すうちに、自分の考えが正しいかどうか分からなくなり、それならばいっそ、両親たちの教えが間違いなく正しいのだ!と思い込んでいるのかもしれない。そうやって自分の考えを捨てて来たのかもしれない。
一見、言い聞かせる言葉は正しい、が落とし穴。
この先自分は、どんなふうに生きればイイの?
親が付いていないと、何も正しくできなくなる。
だから、あんなに家族が大事。じゃあ、皆居なくなった後は???
今日の場合も、確かに彼女のお父さんの言い分は正しかったんだけど
あの時、あの場において、自分の受け取り用は「YES」しかあり得ない状況だった。
子ども(この場合は私)の意志関係なく「全てを受け入れろ」と同等の場面が織り成されてしまってた。意図せず(?) なっちゃってた。
あの場合は「彼女」を受け入れることが第一なのだからそれで正解なのだが、あの状況で「周りも」含めるとなると話が違ってくる。(その中には生命に関わる危険も孕む)
考えれば諸刃の剣だった。
結束した大人に対して反論のしようがない。
父と母が結束して子どもに言い聞かせるのは、子どもの意志を蔑ろにする、ひっっじょうに危険な行為だということを身をもって体感したんだ。それこそ「常識」に食い破られてしまう。
集団で言い聞かせることは、あってはならなかったんだ。
それを受けた本人は、他人本位な正しさを前にし、多数決でYESを矯正され、自分を殺されてしまうから。
どんな場合も言い聞かせるのは、1対1の場合でのみ許される行いなんだ。と考えさせられた。
これは、自分を育ててくれた母と、それからマスターが常にそうであった。
1対1の関係であるから、しっかりと教え、伝え合うことが出来ていた。
マスター、周りにお客さんや顔見知りの人が居る時は、私のどんな粗相も見て見ぬふりだ。
絶対に、マスターと私の二人だけの時。1対1で話し合う場合にのみ。
ある時の振る舞いに対し、お叱りの言葉やアドバイスをいただけていた。
そして必ず、後の言葉にこう続く
「〜〜、と俺は思うぞ」と。
一意見として、選択の自由を与えてくれていた。
ああ、自分は救われていた。
殆どの話し合いの場で、自分と親が対等だったと気づいた。
だから親がどんなに叱っても、怪訝な表情を見せても。
自分は自分の考えを、しっかり持てていたんだ。
コメントを残す