おじいちゃんの夢の園

夢を見た。
おじいちゃんの場所にいた。
現実にあるお家より少し広くて、3階まである瓦の屋根の家。立派。

そしてお庭。
お庭の方は現実よりさらに広がりがあって、川の流れるとこもあった。
緑の園というより、どことなく光に青さがあって、色んな木たちが植わってる。何メートル置きか、あるいは仲の良い木同士が寄り添い合って…
色とりどりの、あの木は何て言うんだろう??丸っぽい大きな葉っぱの先がvの字に欠け、お日様の光に反射してやや虹色がかった模様に煌めいてる。

あと、草たちもいっぱい。
所々に花も植えてあって、薄紫や白い花、萌黄色の穂をつけた草木たちが、青い空間に優しい色味を添えていた。

なんて現実味のある…なのに見たことのないような素晴らしい園なのだろう!

これら全部をおじいちゃんは植えたのだ!

一体どんな気持ちであの木を植えたの?
どうしたらこんなに素敵になるの?

おじいちゃんに尋ねに行こうとした。
母に聞けばおじいちゃんは身体が弱ってて、離れの家…その園の景色に溶け込んでいる、現実世界で立てようとして立たなかった家…にいるようだった。

私は夢の中で目覚め、おばあちゃんの作ってくれたおむすびを朝ごはんに頂いて、おじいちゃんの所に向かった。

立派だったおじいちゃん。
あの木の植え方を教えてもらいにいかなきゃ!

そんな気持ちで素敵なお庭の中を歩いていく。家の前にきたら、腰が曲がって辛そうにしてるおじいちゃんの姿が。

私は思わずその姿に駆け寄って、涙ぐみながら言ってしまった。

「おじいちゃん、治るよね?良くなるよね?」

でも、その姿に泣きたくなるような感情が、先は長くないことを暗に仄めかしてた。

「泣きなさんな、泣かれたらまるで先が長くないみたいじゃないか」

そうして宥められつつ

「全盛期は20代だったな、もう身体がこんなにキツイ。今あの頃に戻れたらどんなにいいか」

おじいちゃんから零れ出たつぶやき。
それに対して私は応えた。

「大丈夫、おじいちゃんの20代の頃は此処の木たちが覚えてる。その記憶を取り出して、もう一度再現すればいいんだよ」

「そうだな…」

と言葉を交わして、僕らは一緒に歩きだした。
歩き出しはゆっくりと、そしてだんだん早くなるペースで。

「おじいちゃん?」

気づけば、駆け足でも追いつかないペースで歩いていた。

「おじいちゃん、どうしてそんなに歩くのが速いの?」

子供の頃に味わった感覚と同じ、一歩の歩幅の差があまりに大きくて、同じリズムで歩いたらどんどん距離を離される。後であの頃、どうしてワザとゆっくり歩くんだ?って怒られたっけ。悔しい思いをしてたのはこっちなのにね

私はとうとう全力で駆け出した。走るのは早いほうだ。なのに全力をだしても、おじいちゃんの歩くペースには追いつかなかった…

いつの間にか背筋が真っ直ぐに、その背中はたくましい姿で。

「おじいちゃん…!」

しばし走り疲れ、追いつくのを諦めた。その後に園の素晴らしい景色が残った。この園をおじいちゃんは作ったんだ。僕らに遺すために。

思わず涙が溢れてきた。
あまりに美しくて…

これがおじいちゃんの作りたかった世界なんだ。その道中に孫の自分は立っている。おじいちゃんの鍬とスコップを持って、私は現実に土地を耕し始めてる。

おじいちゃんの園は、おじいちゃんの場所にあった。
私の場所はここにある。私は夢から覚めて伝えた。

「おじいちゃんの木は、この場所に植えるね。おじいちゃんのことを思いながら植えるね。だから次はこの場所に生まれ変わって来てね。全盛期の記憶をもう一度、この受け継いだ場所で」

あなたのお骨も。いつかきちんとこの場所に還って来れるようにするから。
それまで待っててね。


未来予知は誰にでもできる

未来予知。
未来を予見すること。

さぁ未来予知は実に簡単になった(。0 _ 0。)ノ

十年後二十年後のことはまぁ曖昧なんだが、まずまず明日のことは簡単だ!

「何を食べて生きるのか?」

生きるために食べるものを想像する。
すると自動的に食べ物の調達するプロセスとかかる時間、それまでの行動が未来に予見される!

一般的に米主食なら一年!
木の実なら数年から数十年!
二十日大根なら20日(‘ ‘*)

食する内容によって、想定する未来を予め思い描く能力が備わる。

育ってから食べるまでビビビッ(‘ ‘*)!と。

ちなみに色々自給できればできるほど精度があがる。他の世界の干渉が入らなくてよくなるので。

あとは自身の味わいたい世界を創造して、独自の住みよいスタイルを作っていけばいい。

で、どれほどの未来を描き出すことができるか?は、それぞれの感性だったり関わる食べ物による。

昔の人は木の実も常食してた。
木の実と関わりを持つことで、実の成る何十年ものサイクルに目がいく、今の人たちより未来を予見するスパンが長けてた。

反対に今の社会は一年単位でしか物を見れないことが多い、そのせいでそれより先の未来を踏み外したり、長期的な負債を見えないふりできちゃってるのだけど…たぶんかつて稲作が普及したことにも起因するだろう。米作り中心の暮らしは一年のサイクル、如何なる田んぼも一年毎にリセットされ、同じような単調な繰り返しでしかなくなったから。稲作しか知らなければ、その先があたかも存在しないようになってしまう。…賽の河原は、思い込みや錯覚からもたらされている。

しかし未来は、そういった既知の概念を超えて、もっと自由自在に描き出せるもの。思い思いの素晴らしい世界が、誰の過去にも未来にも存在してる。

目を向けさえすれば。存在することを知っていれば。
その中から先の未来は予見される。
最も今の自分に望ましい形として。


最も悲しいのはコトバが理解されないこと

まるで風の音のよう。
そのコトバに感じ入るものがどれほどか。

土に触れる以前、食べ物は食材という感覚しかなかった。
食べて美味しい、そこそこ。な感覚でしかなかった。
食べ物の背後にある光景に、ずっと気付かなかった。

なんということだ!

もし自分で食べ物を育てる概念があれば、もっと多くのことに気づけた。

食べ物は常に!
人にメッセージをくれている!
彼らの育った光景を見せて「どう感じるか?」ずっと問いかけている!

目の前にある食事が、どのようにしてどのような経路を辿って口にできたのか。

地産地消の良い所は、そのコトバが感じやすくなるところだ。
さすれば味覚はダイレクトに伝わり、イメージが湧き、感情や自分なりのアイデアが浮かびやすい。

もし感覚が鈍ってしまってたら、何を食べてるか分からなくなってしまうものだ。

最も悲しいのは、コトバが理解されないこと。

そこに生きた命は見えるのか。
食べ物の見せるどのような光景が今の自分を形作っているのものなのかは。


食べ物が見せる光景

先日、鹿さんのお肉を食べた。
一緒に柿も食べた。お米も食べた。
どれも、住んでる土地で育ったもの。
実際に近くの田んぼや柿畑、山林を見てきてるから、これらを食した時に、育まれる土地の情景が思い起こされるのです。

美味しさを味わうと同時に、世界観を感じる。食べ物からのコトバ。

鹿肉に柚子の風味が美味しければ
、自給自足の土地に、新たに柚子が生えることになります。種は食べたあとに出る。

また、このようなメッセージもしかり。
柿畑、ずっと柿畑、たくさんの柿。それ以外の果物は???

ずずーん(o _ o。)

うん、いろんな種の樹木が植わってたほうがいい。その方がずっといい!

その土地の食べ物で過ごしてると、素晴らしいこと、美味しいとこ、足りない部分、食を通して伝わってきて、色んなアイデアをくれます。

香りを感じ、味わって、育まれる光景に浸り、喜びと、思い思いの願望をその場所に付け加える。


鹿さんのお肉を頂いてます

近所の方に分けて頂いた鹿肉。
山の緑々しい風味が宿って美味しい。

近くの生きてた鹿さんを獲って、食べやすく捌いて、味噌?に漬け込んだの、生で頂いた。生肉ですよ生肉!

曰く(‘ ‘*)

美味しいだろ?
この辺の草を食べて育ってるから臭みがない、そこらのとは全く違うぞ?

あのね、鹿さんが生きてた頃の光景が、ふんわり浮かび上がります。緑を美味しく食べてたの、鹿さん。美味しい…その鹿さんの人生をぶすっ!!!!って終わらせて、私の糧になったの。

ぁあ、私の食べた鹿さんの命で、今日の一日が動くのだな。
そんな思いなのです。
貴重な一日、鹿さんから頂いた活動エネルギー、無駄にはできない思いなのです。

鹿さんは、もっと緑を食べたかった。うむ、その悲願を受け継いで、今日一日とまた、緑を植える日々となる。 

鹿さんを食べて鹿さんの願いを叶えるよう動く。何となく。