縄文の人は、樹を植えていたか

夢を見た。
木の実は、毎年豊作不作が在る、安定しない。
縄文の人、その土地の木の実が不作の時は、どうしてたのだろうか?

「木を植えないの? 自分たちが暮らしやすいように。色々な樹を植えないの?」

と尋ねた。

 
「私たちは自然のあるがままを受け止める。自分たちの都合のいいように改変しようなど、とんでもない。最悪、食べ物を求めて移動するしか無いだろう。」

 
と、当時の人達の考えを再現するかのように、夢のなかで言われた。

  
この時、想った。
もし先住民たちが、自然の言いなりでしかなくなったのなら、
彼らが北へと去ったのは、自然の意志だ。と。自然は、彼らの考え方を良しとしなかったのだ。
 

「人は、自らも自然の一部である」
この考え方が抜けているのだ。

 
自分たちの縄張りだけでも、自分たちと自然とその動物たちが暮らしやすいよう、色々な手助けをしてあげると、土地との繋がりは強まる。
好きな樹を植えたり、花を植えたり、その植物たちを素材に色々なアイテムを作ったり・・・

土地は、そこに棲む生き物たちの役に立ちたいと常に思ってる。
人は何のためにいる?? 自然のあるがままなど役割放棄もいいとこだ。
人は自らを活かすために。土地を活かすんだ。
植物たちを活かす、動物たちを活かす、微生物たちを活かす、が活かす。

人は、自然を偉大だと畏れるあまり、自分たちの価値を蔑ろにしては行けなかったのだ。
自らも自然の一部として存在を敬えば、或いは、今も楽園は続いていたのではなかろうか。


孤独

あの書庫。10年少し前からのこと。
孤独の中で書いてたのね。
誰も来ない、誰もいない。

寂しい。

 
誰かを求めていながら
書庫に篭もりっきり。

孤独の中で、視えない虚空に手を伸ばしていた。
視えない虚空に、創造を描いていた。

「私はどうすればいいの?」

 
そんな気持ちで。

だから、読み返すと、少し切ない想いが蘇ってくる。
宵闇、星、一人。明かり。閉鎖的な空間で。

何もない、何もないがある。


存在自体が神がかってるね

定義するというのは、

より具体性を増す代わりに
無限の可能性を見えづらくもする。

 
空間という、切り取られた枠内に
時間という、定義を入れた

 
そんな世界の中に要るから、
私たちは世界を認識しやすくなってるのだろう。
有限にして認識しようとするから、この世界に制限が生まれていた。

 
が…

 
空間も時間も、実に無意味な計らいだ。際限がない。
どこまでも続いてる、そして循環している。無限。

 
此処は無限なのだから、無限の中での「存在」自体が神がかってると感じた。
「いつ」から「そこ」にあるのか、始まりも終わりも無いのだから。
全ての存在が、神がかっている。絶えず循環している、際限がない。
 

それらは、生きているということだ。


時間の概念は存在しない

流れ続ける。
物質の粒子が流れ続ける。

この視える光景全て。
粒子が流れ続けている。

 
その粒子の流れには、法則があった。
刻々と変化する一定のリズム。
そのリズムの中で、時間というものを定義された。
 
時間は、元々存在しない。
勝手に定義された。元々存在しない。

循環する。
循環している。延々と。

お日様が、月が。水が。

 
「天井から水が降ってくるなんて、スゴイじゃないか」

と雨の日、そう思った。

 

時間、時間という枠を外せば、リズムがよく視えるようになるかもしれない。
物質が、粒子が、流れていく様子が。目の前の光景、粒子の集合体。何処へ向かう?
望ましいベクトルに収束しようと、流れは加速する。

 

流れは波打ちながら、進んだ。
波、時間よ、相対的なものだよ(。0 _ 0。)ノ

早い波
ゆっくりの波。
中間の波。

 
全ての振動がぴったりと並ぶ瞬間に、扉は開かれた。