物語の更新

新規に描き下ろしたり、以前のお話をストックに戻して、公開の順番を入れ替えようと思ったり。

まるでパズル。
この世界は、過去も現在も未来も混同してる。

必ずしも一定の時間軸では進まなくて
主となる視点も、その場面場面で変わっていく。

 
そんな物語。

 
夢って、こんな形なのかもしれない。
その断片を少しずつ拾い集めながら

物語の全体像が、少しずつ明確になっていく感じ。

 

今まで、お話というのは。。。
過去から、未来へと一方通行の時間軸で描かねば!
という制約があったように思える。

だから、過去を一度描いてしまったら
その制約に縛られたまま、物語を進行せねばならない。

だけど、過去を100%正しく理解するなんてかなり困難で。
それは、現実を読み解くうちに、少しずつハッキリしていくもので。。。

 
たぶん、この描き方だ。
過去も現在も未来も、場所も視点も、バラバラな
この、一見混沌としてる、物語の進行が。

私にとって、真実を映し出すのに最適なやり方なのかもしれない。

 

自由に描こう。

気づいたことから。

少しずつ、断片の意図を紐解いていこう。


どうして彼はその夢を見たの?

見たかったから。
あるいは、見て欲しいと想い続けた誰かが居たから。

 
現実は、星が視る夢。
夢が、強固な石(意志)から発せられる故に
石の夢が、現実として触れられる形に集まって出来ているのが現世。

 
たとえそれが石である誰かにとっては夢でも
視ているモノにとっては、確かな現実として映し出されている。

 
夢。あれは記憶の欠片なのだろうか。
想いが交錯し、断片を繋ぎあわせたような、混沌。
一見、繋がりが見えない。

視ているうちに、少しずつこの現象が当たり前だと思い込まされるんだ。
この夢は、誰の思い描いた夢?

 

マーリユイトは、失くしてしまったあるべき場所を求めて
いつか帰る場所を求めて、あの子は彷徨っている。今も、未だ。

自分という形を繋ぎ止めるために、星の生命力を必死に分けてもらいながら、真実の居場所を、かつて失われた真実の記憶を、根源を、思い出すために。

まるで知恵の輪なんだ。
分かる? そう、知恵の輪なんだ。

見えなくさせられてるんだ。
色んなモノが邪魔してる。

今、目の前に在る現実は、自身にとっての現実じゃない。他人が作ったもの。
他人の舞台に強制的に参加させられてるということ。
そこでは、自身はラットレースのように、他者の幸福のためだけにただ歯車を回し続けるしか無い存在として。そんな役目でしか無い。最初から、無理やり
、自身が地獄のような責務に埋め込まれてる状態だった。

そんなの望んだ自分じゃない!

 
本当の、私自身の居場所。
見失ってしまったの?

うんん、まだ微かに覚えてるんだ。
あの場所、あの日見た記憶の場所が、たくさんの想いの欠片たちが。

囁きかけてくる。夢のなかで。
知ってる? 思い出せる? 夢のなかの出来事。

きっとあれは、誰かの辿った運命の道しるべ。
かつて失われていた記憶のカケラ。その一粒。

断片的なそれだけでは、未だ分からないことが多いけど。
確かに、あの場所には存在していた。

かつての楽園の姿が。。

 
マーリユイトは、もう一つの現実を見た。
あの日の記憶を確かに覚えていた。
どうすれば、あの日の姿を再現できるのだろうか。
地獄のような日々の中、ずっとずっと考えていた。


むかしのこと

ずっと仕事に浸ってた。
自分たちの生活を何とかすることばかりで。

PC、

昔は、遊び道具だった。
創作するために、欠かせないものだった。
同じ志をもつ、ネットの仲間たち、クリエーターさんと、交流するためのツールだった。

もう、10年も前の話だ。

 

いつしか、時の流れの中で。
私は、社会人に。働かねばならない身となった。
会社勤めで、ほとんとPCに触れる時間が無かった。
音を作ることを、忘れかけていた。このままではダメだった。

だから、会社をやめた。
働いてばかりの生活は嫌だ。

だから、自分でできる仕事を、一から見つけようとした。
作曲をお仕事とすること、一時期目指したこともあった。

だけど、これは僕には向いてない、自分が音を仕事ではなく、好きなように描きたいから。

いつしか、パソコンのスキルを活かした様々な業種にチャレンジするようになり
音楽を作ること、小説をかくことを、忘れてしまった。

PCに触れれば、やらなければならないこと。
日々の生活の糧を、生み出すことに精一杯だった。
創作の余力を見いだせなかった。

1年に数回、思い出したように作曲ツールを触ることもあったが
OSをWinからMACに移したこともあり、作曲当初愛用してたサクラMMLが普段使うPCでは動かない、時たま置き去りにされた古いパソコンを、立ち上げるんだ。

今でも思い出す。
サクラMMLに触れると、楽しかったあの頃。
皆と曲の完成度を競ってた時の頃、自分の音を精一杯表現していた頃。

今も此処にある。
あの頃の感覚。

私は、曲作りを、あの頃の感覚の延長で、していきたいと思ってる。

 
 
物語を描いて、そこに音を乗せて、
巡る箱庭の物語も、その周りを巡る、様々な物語の背景を。

音で描いていく。
あの頃。

むかしのあの頃と、おなじ感覚で。

 

もう、時間も余裕もできてきたんだ。
お願い、またあの頃の感覚を思い出して。

あの頃、同じ場所で語り合った仲間たちと、彼らのような仲間たちと、交流しながら、また自分の音を描き続けていきたい。

 

私は、僕は、気づいたら、何もなくなってたんだ。
人生の張り合いを、、、本当に自分が成し遂げたいことを。
あの頃の感覚、あの頃の感覚が、思い出させる。

 
私はあの時、すでに私自身だった。
私は再び、私自身になる。本来の形に。

あの頃の感覚が、蘇ってくる。


自身の想いを聞かせて

人間が怖い
というか嫌われるのが怖い。
他人から嫌われるのが嫌で、嘘の仮面を今日被る。

嘘の仮面を自分が被るから、
他人のことも、仮面を被った偽りの表情として視えてしまう。

そんな中で、自分は正しくあろうとして、何が何なのか分からなくなった。

 

この日、おそらく彼女の居る世界に、僕も居た。
彼女と、彼女のお父さんと、彼女のお母さんと、自分とで喫茶店に居る。
朝ごはんに誘われ、昨夜少し彼女と揉めた分の仲直りと、家族でそのフォロー。

この時、彼女のお父さんから直々にアドバイスを受け、最初に周りを受け入れることが正解の第1ステップだというのを納得して聞いていました。

その時、そこで思考がキャパオーバーした。
それを受け入れる時、自分が何が何だか分からなくなってしまった。
(まぁ、「周り」の有り様自体が、最初よく分からないものだし)

 

。。。。。

家に帰り着いた後、買ったばかりのオーブンの、ガラスの外面を割ってしまった。
ちょっと躓いただけで、ボロボロと崩れ落ちてしまった。
これは普通のガラスの割れ方じゃない、脆すぎる!

外面が割れた今、中面が丸見えだ。

 
 
混乱した。

高かったのに、前回も初期不良ですぐ交換だったのに、既に二度手間なのに。
結局1回も使わないまま、外面が割れた状態になってしまった。
また交換? これで3回目? しかも今度は自己負担?

。。。

。。。

 
このままで行こう(‘ ‘*)

うん、使える。
むしろこっちの方が安全じゃね?
(脆いガラスで覆うくらいならこのままで)

 

割りきった。

 

 

  
だが、ここで終わらない。

混乱した想いを拭えないまま、風呂に入る。
うちでは、洗濯も同時に手洗いだ。
今度はうっかり、ズボンに携帯を入れたままだった。
携帯が沈没した。すぐ引き上げた。
が、電源が入らなくなってしまった。
中のメモリはどうだろうか?

明日、確認せねば。

 

。。。

なんか、自分が何やってるか分からなくなった。
もしかしたら今日、そんなこんな干渉が起こったのかもしれない。
これ、彼女の見てる世界の一部なのかもしれない。

 
 

何をやっても上手くいかない。
タイミングを外される。
自分を分からなくさせられる。
ふんだり蹴ったり。
それでも必死にあがく。泥沼。

なぜだ!

今は動くべきじゃないことを、時が教えてくれている。
今は落ち着いて頭を休める時だと、何かが囁きかける。 

 

何がマズかったか。
振り返ればここか!?

100%「受け入れる」なんて、そうそうあり得ないんじゃないか。
個人ならまだ分かる、だが、対複数の場合は厳しい。

 
すべて「受け入れる」という言葉を鵜呑みにしたらば…
1:1の関係なら話し合いで調整可能だが
1:集団での場なら、自分が集団の波に飲まれる、自分自身を分からなくさせられるケースが殆ど。
複数人に対し、イキナリすべて受け入れるのは、個人の器じゃキャパオーバーになってしまう。

 

集団とは実は、身近な家族にもなるだろうか。父と母、と子ども。
この時、子どもに対し、父と母が結束してこうだ!っていうと、本当にそうだと信じて疑わなくなってしまうみたい。狭い常識、思い込みというのはこうして作られるのかもしれない。
自分は、こうでなければならないと、錯覚してしまうから。
 
待て! 自分の意志はどうなんだ? どこまで許容できるんだ?

 
生まれた時から、子どもは一人前の人間。
自分で考え、選択し、行動する力を持つ。
始まりの時から「ありのままに、自分の意志に忠実に生きる!」という
一つの存在としての、純粋な想いを宿している。

自分自身の想いを軸に、父や母の言い分をどこまで許せるか、どこで許容出来なくなるか。
線引を明確にすることが大切。それが「自分の意志」を護ること、「自分をしっかり保つこと」に繋がる。
 

外面が割れようと、周りの気分が沈もうと。
ありのままのその状態に意味を見出せる、想いの強さが培われる。

 
どんな時も落ち着いて、自分の想いを胸に、そのものを冷静に見つめるんだ。
ありのままに相応しい答えを、もう一度練り直す(o _ o。)

 

・・・・

ああ、あの子には自分の考えというものが見れない!

そうなんだ! 最初はあったはずのそれが。
複数人の場で言い聞かせることを繰り返すうちに、自分の考えが正しいかどうか分からなくなり、それならばいっそ、両親たちの教えが間違いなく正しいのだ!と思い込んでいるのかもしれない。そうやって自分の考えを捨てて来たのかもしれない。

一見、言い聞かせる言葉は正しい、が落とし穴。
この先自分は、どんなふうに生きればイイの?
親が付いていないと、何も正しくできなくなる。
だから、あんなに家族が大事。じゃあ、皆居なくなった後は???

 
今日の場合も、確かに彼女のお父さんの言い分は正しかったんだけど
あの時、あの場において、自分の受け取り用は「YES」しかあり得ない状況だった。

子ども(この場合は私)の意志関係なく「全てを受け入れろ」と同等の場面が織り成されてしまってた。意図せず(?) なっちゃってた。

あの場合は「彼女」を受け入れることが第一なのだからそれで正解なのだが、あの状況で「周りも」含めるとなると話が違ってくる。(その中には生命に関わる危険も孕む)

 
 
考えれば諸刃の剣だった。
結束した大人に対して反論のしようがない。

父と母が結束して子どもに言い聞かせるのは、子どもの意志を蔑ろにする、ひっっじょうに危険な行為だということを身をもって体感したんだ。それこそ「常識」に食い破られてしまう。

集団で言い聞かせることは、あってはならなかったんだ。
それを受けた本人は、他人本位な正しさを前にし、多数決でYESを矯正され、自分を殺されてしまうから。
 
 

どんな場合も言い聞かせるのは、1対1の場合でのみ許される行いなんだ。と考えさせられた。
これは、自分を育ててくれた母と、それからマスターが常にそうであった。
1対1の関係であるから、しっかりと教え、伝え合うことが出来ていた。

マスター、周りにお客さんや顔見知りの人が居る時は、私のどんな粗相も見て見ぬふりだ。
絶対に、マスターと私の二人だけの時。1対1で話し合う場合にのみ。
ある時の振る舞いに対し、お叱りの言葉やアドバイスをいただけていた。

そして必ず、後の言葉にこう続く

「〜〜、と俺は思うぞ」と。

 
一意見として、選択の自由を与えてくれていた。

 

 

ああ、自分は救われていた。
殆どの話し合いの場で、自分と親が対等だったと気づいた。

だから親がどんなに叱っても、怪訝な表情を見せても。
自分は自分の考えを、しっかり持てていたんだ。


素直が一番ね(自分の心にね)

共鳴、同調。憑依。テレパス。
に通ずる話、その2(‘ ‘*)

好きか嫌いか?
その2択。

 
視ようとする対象が、自分にとって要らん!とする場合。
それらは一瞥して素通りだ。

目に入らなくなるんだ。
元から無かったことになる。

 
幻は儚く(‘ ‘*)

ありのままの自分として、さらけ出すから
周りから、そういうものだと認められるようになる。

もう取り繕うことに悩まなくてイイ。
自分の好きなようにしてイイんだ。

 
好きなこと、興味を惹かれることなら
どれだけだって視ようと思える。

子どもたち。子どもたちがそう。
なんでもかんでも知りたいね。知りたい。

 

素直が一番ね。

好きなモノを好きなだけ。
嫌いなものは無視。それは存在しない。