縄文の人は、樹を植えていたか
夢を見た。
木の実は、毎年豊作不作が在る、安定しない。
縄文の人、その土地の木の実が不作の時は、どうしてたのだろうか?
「木を植えないの? 自分たちが暮らしやすいように。色々な樹を植えないの?」
と尋ねた。
「私たちは自然のあるがままを受け止める。自分たちの都合のいいように改変しようなど、とんでもない。最悪、食べ物を求めて移動するしか無いだろう。」
と、当時の人達の考えを再現するかのように、夢のなかで言われた。
この時、想った。
もし先住民たちが、自然の言いなりでしかなくなったのなら、
彼らが北へと去ったのは、自然の意志だ。と。自然は、彼らの考え方を良しとしなかったのだ。
「人は、自らも自然の一部である」
この考え方が抜けているのだ。
自分たちの縄張りだけでも、自分たちと自然とその動物たちが暮らしやすいよう、色々な手助けをしてあげると、土地との繋がりは強まる。
好きな樹を植えたり、花を植えたり、その植物たちを素材に色々なアイテムを作ったり・・・
土地は、そこに棲む生き物たちの役に立ちたいと常に思ってる。
人は何のためにいる?? 自然のあるがままなど役割放棄もいいとこだ。
人は自らを活かすために。土地を活かすんだ。
植物たちを活かす、動物たちを活かす、微生物たちを活かす、人が活かす。
人は、自然を偉大だと畏れるあまり、自分たちの価値を蔑ろにしては行けなかったのだ。
自らも自然の一部として存在を敬えば、或いは、今も楽園は続いていたのではなかろうか。
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