同じ内容が視界に映っても、見てるものは一人ひとり違ってくるみたい。
その人が認識できる範囲で、一番近しいものとして映るから。
例えば、誰かが「故郷」という響きをイメージに焼き付けたとする。
すると、一人ひとり思い描く情景が違ってくるのです。
ある者は、あの場所で。また別の者は別の場所で。
それが鮮明なカラーではなくセピアの情景かもしれないし、モノクロかもしれない。
写真のような影像かもしれないしCGのような形や、或いはアニメ調かもしれない。
その人が関わってる中で、一番近いものに、それは姿を変える。
今見えてるものは、事実だけどそれが全てではない。
表層よりも、その存在理由を問う。それが何であるか?
夢の世界を人に伝達する時
イメージをどんな形にすればその人に伝わりやすいか?
そういうのも意識して描くのも必要なんだろうと想いました。
興味深い記事を見つけたので考察。
http://labaq.com/archives/51806891.html
前回書いた「夢の情景」についてのコラムをもとに考えてみると
一つ見落としているのに気づく。
それは、人間が認識してないものを猫が見ている可能性があるということ。
色付きの写真、思いっきり人間ベースですね(o _ o。)
それが猫の視界ではぼやけてる。そうなんだー(。◕ ∀ ◕。)ノ
でも、ぼやけた視界の先で猫が何を見ているかまでは
比較の写真ではわからないでしょう。
なぜかって、人間には肉眼ではっきり見えない世界。
それを人間のツールで再現することは難しい。
そういうのがきっとあると思うから。
だから、猫の視界を人間に分かりやすく例えようとしたら
写真のように色とぼやけた視界、でしか映らないのだと思う。
夢で、記憶の中の情景しか再現できないのと同じだ。
はてさて、猫さんは何を見ているのかにゃ〜?(‘ ‘*)
それはねこのみぞ知る。
人は一人では生きていけない。
この言葉の真の意図は
「人は、一人で生きてるわけではない」
前の日記で書いた記憶の引き継ぎは、些細な事でも起こっている。
誰かの記憶に眠る、想い出の中の1ページがそういう感じ。誰にでも起こっている。
生きてきたら、生きてきた分だけずらずらずら〜。
それまでの、想いや記憶、食べてきたもの、土地の想念を、
いくつもいくつもいくつも
積み重なって、今の自分がいる。
その体は、自分だけのものではない。
気づかない人が多いから、本当の価値に築けないのでしょう。
気づいたら、その無限の価値に目覚めるのでしょう。
さて、あなた方に引き継がれた大切なモノは、思い出されることがないまま
仕組みに吸われ続けるでいいのですか?
大多数の人たちが、今の世の中に満足してませんよ。
何かしら、行動を起こしたいと思っている。
でも自分一人でなんとかしようたって、たかが知れている。
そんなときはどうするか?
自分が受け継いできたモノの、根本に耳を傾けることだ。
古代の知恵がそこに隠されている。
先人の知恵は、見せかけの仕組みなどより
さらに多くの、さらに深い洞察力を、少しずつ開いてくださるだろう。
私たちは一人じゃない。
私たちを相手どるということは、
その全てを相手にするということ。
そして、すべての人がその可能性に気づくということ。
私は以前、人のことを共鳴者と呼んでいた。
私たちがほんとうの意味でつながった時、未来は劇的に変化する。
苦しい時に
助けてくれる存在
とてもありがたい
いつも助けてくれている。
時々忘れてしまう。
苦しい時、ああ。と思い出す。
いつも助けてくれてたことを。
どうして、感謝を忘れてしまっていたのでしょう。
みんながいるから、こうして生きていられるのです(o _ o。)
今日は1月15日、満月の夜。
旧暦では12月15日にあたる小正月といって
小豆粥を食べてたそうな。

そして青白く燃える、ほのおのように。
ゆらゆら、月の影は雲隠れ。
数時間後、まんまるお月さまが顔を出しました。
きょうも綺麗だね♪
