こんんちは(‘ ‘*)
永らくブログ更新が空いた。
平穏な日々を過ごしております。
大雨でしたね。
水回り、よく見れた一日でした。
大量の水が押し寄せるとき、家周りで滞ること無く流れるか。
もし水溜まる場合、古い水が沼地化する現状を、嘆く間もなく、
自分の家だしね、軒下に落ちる雨滴の通り道を作る。溝掘りして、流して。すっきり。
そうして湿気は流され、夏場の蚊に悩むことも少なく、快適に過ごせることを教わりました。
そんな日の夕暮れ時より、田んぼ仲間で集まってお寿司パーティーです。
お寿司パーティーです(。◕ ∀ ◕。)ノ
板前さん登場〜〜〜〜

出来るものは自分たちの持ち寄りで。
自給率スゴし!
自分たちで畑とか田んぼとかできると、
寿司飯も自前で作れるようになってしまうのですね!
玄米のお寿司は、梅を漬けた時に出来る梅酢を主にして仕上げた。
(玄米2合+水1合+梅酢大さじ5+しょうゆ大さじ2)ベース
白米のお寿司は、お砂糖の代わりに蒸らしのタイミングで「塩麹」を用い、麹の発酵でお米の甘みを増やす。そして「お酢」で〆る。
(白米3合+水2合半+塩麹大さじ2+お酢大さじ4)ベース
なんともヘルシーで素晴らしいお寿司が作れてしまったのでした。

にぎりは職人には敵わん。
何回か練習すれば、綺麗に握れそう。
プロ顔負けの粒ぞろい具材で、何らかの職人さんが居て、自前でお寿司が味わえる。
お寿司食べたい。
そんな要求に、私共がお応えして、頂きました。
ご馳走様でした〜♪ヽ(。◕ v ◕。)ノ~*:・’゚☆
今日ものんびりうだうだ。
お腹空いたから、下のお店で買ってきたアジの開きを、鍋にして。
干ししいたけと昆布の出汁に、もらった大根と白菜、ことこと。
〆はお米〜。
白米の見事な輝きが、芯の少し残った状態から、少しずつ柔らかくなって、食べるタイミングで味が変わってく!
うまうま
猫さんと食べました(‘ ‘*)
柿いっぱい貰ったので、それも。
食べて、寝て、起きて。
雨で、今日ものんびり。
よし!
至高のダメ人間になる。
動く気ゼロにゃ(‘ ‘*)
冬の一日
一日の境目が曖昧になった。
いつから夜で、いつからお日様がでてるのか。
寒くなって、気温の上がる午後までは、お布団の中でのんびり。
活動を再開するのは午後三時!
そして、夜日付の変わる頃にはお布団で。
うん、冬は一日がとても短いね。
ずっと寝て過ごす、冬眠も良いなっておもっちゃうのでした。
でも、稀に創作が捗るときは、夜通し起きてたりする。
いつの間にか朝になってて、これから寝ようかな?って時は、日付の感覚が曖昧になってくる。
だって、冬だし。
一日が寝て過ごされるも、冬眠、暁など知らぬ。でまかり通るし。
土地さんも、冬はお休みです。
静かな一日が続きます。
人は、大きく二種類に分けられる。
自分を優先する人。
周りに合わせる人。
人間はどうあるべきなの?
と問うた時、自分を貫くべきだというのと、周りを尊重すべきだというのと、二パターンある。
で、人はそのように行動する。
…
人間はどうあるべきなの?
の答えは、そんな所にはなかった。
周りの環境が問題なのだ。
自分のやりたい事に対し、周囲が敵や障害になる場合。
自分を優先するなら周りを蹴散らしながら問答無用で進むし、そしたら調和もクソもあったもんじゃねぇ、村八分上等だ(。0 _ 0。)ノ
それでも自分の信念を貫くことが重要だとなる…孤独と周りへの敵対心を以って生き、彼の地の菜園もそのような性質を帯びる、周りから手のつけられん危険人物と見なされるであろう。
一方で、周りと合わせることを選ぶ人は、世の中の秩序に封じられたまま自分を見失って果てる。本当の自分は何処にいるの??
周りが障害だらけなら両方がダークサイドに落ちて舞う。環境が問題だったのだ。
もしも、ありのままの自分を認められる環境だったなら、安心して自分を貫けるし、自然と周りに調和できる生き方を見出だせるだろう。
自分が満たされること
或いは満たしてあげること
まずそこじゃないかな?って思うよ。と山暮らし大先輩の言葉。自然と優しい気持ちが生まれてくるんだって。
なるほど(‘ ‘*)
子どもの生育環境を垣間見る。
菜園にも、自然の草や木や花にも当てはまる。
動物を飼う、猫にも鳥にも虫にもそうだろう。
どれほどを受け入れられる場所にしていけるか??
ありのままの存在を認められる環境作りが、自然と自らの望ましい生き方と観る。
食いもんいっぱい実りますにゃ〜(。0 _ 0。)ノ
剣で語ったり、鍬で語ったり。
先輩の懐石を味わえたり。
言葉に在らず、何物かを通じて語られる…里山に越してきて、ようやくの体感だった。
なぜ日本人ははっきり物を言わないのか解った部分があった。
なるほど、一から十まで言葉にするのは無粋というか。
言葉の源は目の前に出されているのであり、二度手間言う必要はない。どこをどう伝わるかは受け手次第であり、それでよいのである…と。
日本語のわびさびを思う。
人は、自分の感性の範囲で世界を捉えるのが自然。
自分の世界観はこうだ!
と相手に伝するとして、言葉でも何でも双方の共感できる部分でのみ通ずるのだ。
そうすればお互いの世界観を壊すことなく、平穏な対話となる。
ようは感性の問題。
さらには実際の言葉より多くのイディオムを宿らせた対話となれる。
越してきて間もない頃、先輩の言葉は解りづらかった。
いったい何を想って言ってるのか、言葉がまるで別世界にあるかのようだった。
先輩は憂えてた。
なぜお茶を出される意味を考えないのか?と。
自分からすれば、???だった。
お茶はお茶。
しかし、出されるからには何らかの理由がある。そこを判らななければ話にならない!と…
そういえば、塔の崩壊によって人は言語の壁が生まれたという。お互いに言葉が通じなくなった本当の原因は何だったのか??
便利で快適!おご馳走!
人は美味しいとこだけ甘んじることに慣れ、裏の事情を知ろうともしなくなった。
気持ちが通じないとは、裏事情が判らないということ。
判らない人間には、何をやって(言って)も有り難みがない、無駄がね(‘ ‘*)
そして匙は投げられる。
結果、その人が意図しない方向に流され(自分で勝手な誤解して)失意のどん底に陥るとして、それは当人の感性の問題になる。
匙の心遣いが伝わらない人間に、誰が真摯に向き合えようか。
子供時代、大人からしてもらうのが当たり前になってたると、いずれの時に苦労する。甘さは毒。
人の温情は当たり前ではない。
その意味を汲み取り、応えられるようにならねば人でなし。
形式だけじゃお遊戯会…
味わう感性の学びや。