働かにゃい
今日ものんびりうだうだ。
お腹空いたから、下のお店で買ってきたアジの開きを、鍋にして。
干ししいたけと昆布の出汁に、もらった大根と白菜、ことこと。
〆はお米〜。
白米の見事な輝きが、芯の少し残った状態から、少しずつ柔らかくなって、食べるタイミングで味が変わってく!
うまうま
猫さんと食べました(‘ ‘*)
柿いっぱい貰ったので、それも。
食べて、寝て、起きて。
雨で、今日ものんびり。
よし!
至高のダメ人間になる。
動く気ゼロにゃ(‘ ‘*)
今日ものんびりうだうだ。
お腹空いたから、下のお店で買ってきたアジの開きを、鍋にして。
干ししいたけと昆布の出汁に、もらった大根と白菜、ことこと。
〆はお米〜。
白米の見事な輝きが、芯の少し残った状態から、少しずつ柔らかくなって、食べるタイミングで味が変わってく!
うまうま
猫さんと食べました(‘ ‘*)
柿いっぱい貰ったので、それも。
食べて、寝て、起きて。
雨で、今日ものんびり。
よし!
至高のダメ人間になる。
動く気ゼロにゃ(‘ ‘*)
冬の一日
一日の境目が曖昧になった。
いつから夜で、いつからお日様がでてるのか。
寒くなって、気温の上がる午後までは、お布団の中でのんびり。
活動を再開するのは午後三時!
そして、夜日付の変わる頃にはお布団で。
うん、冬は一日がとても短いね。
ずっと寝て過ごす、冬眠も良いなっておもっちゃうのでした。
でも、稀に創作が捗るときは、夜通し起きてたりする。
いつの間にか朝になってて、これから寝ようかな?って時は、日付の感覚が曖昧になってくる。
だって、冬だし。
一日が寝て過ごされるも、冬眠、暁など知らぬ。でまかり通るし。
土地さんも、冬はお休みです。
静かな一日が続きます。
人は、大きく二種類に分けられる。
自分を優先する人。
周りに合わせる人。
人間はどうあるべきなの?
と問うた時、自分を貫くべきだというのと、周りを尊重すべきだというのと、二パターンある。
で、人はそのように行動する。
…
人間はどうあるべきなの?
の答えは、そんな所にはなかった。
周りの環境が問題なのだ。
自分のやりたい事に対し、周囲が敵や障害になる場合。
自分を優先するなら周りを蹴散らしながら問答無用で進むし、そしたら調和もクソもあったもんじゃねぇ、村八分上等だ(。0 _ 0。)ノ
それでも自分の信念を貫くことが重要だとなる…孤独と周りへの敵対心を以って生き、彼の地の菜園もそのような性質を帯びる、周りから手のつけられん危険人物と見なされるであろう。
一方で、周りと合わせることを選ぶ人は、世の中の秩序に封じられたまま自分を見失って果てる。本当の自分は何処にいるの??
周りが障害だらけなら両方がダークサイドに落ちて舞う。環境が問題だったのだ。
もしも、ありのままの自分を認められる環境だったなら、安心して自分を貫けるし、自然と周りに調和できる生き方を見出だせるだろう。
自分が満たされること
或いは満たしてあげること
まずそこじゃないかな?って思うよ。と山暮らし大先輩の言葉。自然と優しい気持ちが生まれてくるんだって。
なるほど(‘ ‘*)
子どもの生育環境を垣間見る。
菜園にも、自然の草や木や花にも当てはまる。
動物を飼う、猫にも鳥にも虫にもそうだろう。
どれほどを受け入れられる場所にしていけるか??
ありのままの存在を認められる環境作りが、自然と自らの望ましい生き方と観る。
食いもんいっぱい実りますにゃ〜(。0 _ 0。)ノ
剣で語ったり、鍬で語ったり。
先輩の懐石を味わえたり。
言葉に在らず、何物かを通じて語られる…里山に越してきて、ようやくの体感だった。
なぜ日本人ははっきり物を言わないのか解った部分があった。
なるほど、一から十まで言葉にするのは無粋というか。
言葉の源は目の前に出されているのであり、二度手間言う必要はない。どこをどう伝わるかは受け手次第であり、それでよいのである…と。
日本語のわびさびを思う。
人は、自分の感性の範囲で世界を捉えるのが自然。
自分の世界観はこうだ!
と相手に伝するとして、言葉でも何でも双方の共感できる部分でのみ通ずるのだ。
そうすればお互いの世界観を壊すことなく、平穏な対話となる。
ようは感性の問題。
さらには実際の言葉より多くのイディオムを宿らせた対話となれる。
越してきて間もない頃、先輩の言葉は解りづらかった。
いったい何を想って言ってるのか、言葉がまるで別世界にあるかのようだった。
先輩は憂えてた。
なぜお茶を出される意味を考えないのか?と。
自分からすれば、???だった。
お茶はお茶。
しかし、出されるからには何らかの理由がある。そこを判らななければ話にならない!と…
そういえば、塔の崩壊によって人は言語の壁が生まれたという。お互いに言葉が通じなくなった本当の原因は何だったのか??
便利で快適!おご馳走!
人は美味しいとこだけ甘んじることに慣れ、裏の事情を知ろうともしなくなった。
気持ちが通じないとは、裏事情が判らないということ。
判らない人間には、何をやって(言って)も有り難みがない、無駄がね(‘ ‘*)
そして匙は投げられる。
結果、その人が意図しない方向に流され(自分で勝手な誤解して)失意のどん底に陥るとして、それは当人の感性の問題になる。
匙の心遣いが伝わらない人間に、誰が真摯に向き合えようか。
子供時代、大人からしてもらうのが当たり前になってたると、いずれの時に苦労する。甘さは毒。
人の温情は当たり前ではない。
その意味を汲み取り、応えられるようにならねば人でなし。
形式だけじゃお遊戯会…
味わう感性の学びや。
今日は、地元でこだわりのお米を作ってらしゃる先輩に、お家でご馳走になりました。
先輩から本を借りてた。
昭和40年代に辻さんという方が描かれたご飯と味噌汁の大善書。
そこには、ご飯と味噌汁、代々日本人が培ってきた食べ物を通じて、著者にとっての懐石料理の哲学とあらまし、職人の業を体感。図解入り。
そもそも懐石料理の起源とはなんぞや。
ご飯、味噌汁一杯の醸し出す芸術美。その土地、その時期の旬を味わってもらう。
食の魂を通じて、客人をもてなす心や。
その根幹から、四季折々に生まれるご飯の炊き方の数々、味噌汁の合わせの数々。盛る器、提供するタイミング、主人と客人との言葉なきメッセージが、ご飯一つ味噌汁一杯に込められとる。
調理方法は現代と昔は少し異なる、時代背景が違い、道具も素材も違うから。参考になるか丸ママは難しいが、しかし味わいの根幹とする部分は変わらないと感じた。
自然だ。食は、素材は、自然が生む。自然の芸術だ。
料理人は感じる心である。
料理人の感じた世界観が、料理として器に出る。
客人は出された料理を通じて、料理人の世界観を想い、その根幹にある世界の背景を想う。
今年、初めての米作りに挑戦で、先輩の元に聞きにいったわけでもなか。先輩には先輩のやり方。
私には私なりのやり方。別口。
なるほど方法如何の教授は、なされない。
代わりに、先輩はどのように自然と対話し、どのような哲学で持って日常を過ごしてるか。
どのような視点で物事を観察してるか、を教えてくれた。
手作りのにぎり寿司。
コチのお吸い物。
シメのおみかん。
急な来客にも係らず
御馳走様でした!!
さぁ、これだけ味わえたら後は実践あるのみだ。
山の稲作は秋が早いので、麓と比べて一ヶ月早く種おろしする。
4月だ。私もぼちぼち稲の種蒔きを行わねば。
美味しいお米を夢見る(‘ ‘*)
HN:鈴鳴 ると