無料レストラン

そこにはレストランみたいなものがある。
人の作ったモノより、もっと以前から存在してた。

今も私たちの目の前にあるのだと思う。
でも、多くの人達が気づかないまま通り過ぎてるのだと思う。

今は、もっとわかりやすい形で人が作った「レストラン」がたくさんある。
だから、そこに人が流れていく。参拝するにつれてそれが習慣化すると。
少しずつ、以前あった原初の形態を忘れてしまうのだろうか。

 
飲み物はミネラルウォーターを買うのだ。
これも、人が作ったレストランの恩恵だと思う。

惣菜は店で買う。
これも、人が作ったレストランの恩恵だと思う。

ご飯もレトルトを買う。
これも、人が作った…

 

水は、以前はそこにあった。
今も目の前にある。雨水。

惣菜は、目の前にある。
春は、野草が美味しい季節。

ごはんは、山や海にいく
木の実や魚が捕れる。

 

今、目の前にあるもの。
それを、いろいろなモノたちが見えなくする。
お金が使えなくなった時、目の前の自然の恵みを思い出させてくれる。


今日見た夢

Cさんが話しかけてきてくれた

楽しい時間、なんでもないような時間。
そしたら、今の状況についてこう語った

「私もこんな状況。もっとしっかりしなさい」

ホントね。何やってるんだろうね…
いい加減結果を出したいですよ(o _ o。)


一人一人見ている情景が違う

同じ内容が視界に映っても、見てるものは一人ひとり違ってくるみたい。
その人が認識できる範囲で、一番近しいものとして映るから。

例えば、誰かが「故郷」という響きをイメージに焼き付けたとする。
すると、一人ひとり思い描く情景が違ってくるのです。
ある者は、あの場所で。また別の者は別の場所で。

それが鮮明なカラーではなくセピアの情景かもしれないし、モノクロかもしれない。
写真のような影像かもしれないしCGのような形や、或いはアニメ調かもしれない。

その人が関わってる中で、一番近いものに、それは姿を変える。
今見えてるものは、事実だけどそれが全てではない。
表層よりも、その存在理由を問う。それが何であるか?

 
夢の世界を人に伝達する時
イメージをどんな形にすればその人に伝わりやすいか?
そういうのも意識して描くのも必要なんだろうと想いました。


猫の視点ではこう見えている?

興味深い記事を見つけたので考察。

http://labaq.com/archives/51806891.html

 
前回書いた「夢の情景」についてのコラムをもとに考えてみると
一つ見落としているのに気づく。

それは、人間が認識してないものを猫が見ている可能性があるということ。
色付きの写真、思いっきり人間ベースですね(o _ o。)
それが猫の視界ではぼやけてる。そうなんだー(。◕ ∀ ◕。)ノ

でも、ぼやけた視界の先で猫が何を見ているかまでは
比較の写真ではわからないでしょう。
なぜかって、人間には肉眼ではっきり見えない世界。
それを人間のツールで再現することは難しい。

そういうのがきっとあると思うから。

 
だから、猫の視界を人間に分かりやすく例えようとしたら
写真のように色とぼやけた視界、でしか映らないのだと思う。
夢で、記憶の中の情景しか再現できないのと同じだ。

 

はてさて、猫さんは何を見ているのかにゃ〜?(‘ ‘*)
それはねこのみぞ知る。


人は一人では生きていけない

人は一人では生きていけない。

この言葉の真の意図は

「人は、一人で生きてるわけではない」

 

前の日記で書いた記憶の引き継ぎは、些細な事でも起こっている。
誰かの記憶に眠る、想い出の中の1ページがそういう感じ。誰にでも起こっている。

 
生きてきたら、生きてきた分だけずらずらずら〜。

それまでの、想いや記憶、食べてきたもの、土地の想念を、

いくつもいくつもいくつも

積み重なって、今の自分がいる。

 

その体は、自分だけのものではない。
気づかない人が多いから、本当の価値に築けないのでしょう。
気づいたら、その無限の価値に目覚めるのでしょう。

さて、あなた方に引き継がれた大切なモノは、思い出されることがないまま
仕組みに吸われ続けるでいいのですか?

大多数の人たちが、今の世の中に満足してませんよ。
何かしら、行動を起こしたいと思っている。

 
でも自分一人でなんとかしようたって、たかが知れている。

そんなときはどうするか?
自分が受け継いできたモノの、根本に耳を傾けることだ。

 
古代の知恵がそこに隠されている。

 
先人の知恵は、見せかけの仕組みなどより
さらに多くの、さらに深い洞察力を、少しずつ開いてくださるだろう。

 

私たちは一人じゃない。
私たちを相手どるということは、
その全てを相手にするということ。
 
そして、すべての人がその可能性に気づくということ。

 
私は以前、人のことを共鳴者と呼んでいた。
私たちがほんとうの意味でつながった時、未来は劇的に変化する。