食べるのが好き。
食べ物は富の象徴。
という考えがある。
なぜそうなるのだろう?
それは、食べ物は記憶を宿しているからだ。
と、誰かが言ってました。
土地の記憶、土の記憶、降り注いだ雨、太陽の光
それらのエネルギーが凝縮されて、実に宿っている。
それを私達は食べている。
郷土料理という言葉がある。
地産地消という言葉がある。
それを食べることは、その土地の記憶を受け継ぐということ。
その場所の大地を踏みしめ、風の匂いを感じながら
その土地の食べ物を頬張るのだ。
瞬間、土地に根付いた独特な雰囲気や歴史を舌で感じ、自分の記憶の一部にすることができる。その記憶が、自らの財産となり力となる。
富の証は、そのエネルギーからきている。
吟遊詩人は、各地を旅歩きながら、幾土地もの記憶をその身に宿していった。
そして、その記憶を伝え歩いては、その場でお捻りを頂いて生活の糧としていた。
(と同時に、富を構築できる資産=記憶の設計図がとんでもなく増えていた)
と想像できます。
今もね、郷土料理を味わおうと思えば、できると思う。
現地で採れた食べ物をたべると、その土地独自の風格を、身に沁みて味わえます。
それがとても嬉しい。
戦後、大量生産でぐわーって画一化するのは失敗だったね?
記憶が削がれてましたですよ。
はいはい、ふっかつふっかつ(。◕ ∀ ◕。)ノ
そこにはレストランみたいなものがある。
人の作ったモノより、もっと以前から存在してた。
今も私たちの目の前にあるのだと思う。
でも、多くの人達が気づかないまま通り過ぎてるのだと思う。
今は、もっとわかりやすい形で人が作った「レストラン」がたくさんある。
だから、そこに人が流れていく。参拝するにつれてそれが習慣化すると。
少しずつ、以前あった原初の形態を忘れてしまうのだろうか。
飲み物はミネラルウォーターを買うのだ。
これも、人が作ったレストランの恩恵だと思う。
惣菜は店で買う。
これも、人が作ったレストランの恩恵だと思う。
ご飯もレトルトを買う。
これも、人が作った…
水は、以前はそこにあった。
今も目の前にある。雨水。
惣菜は、目の前にある。
春は、野草が美味しい季節。
ごはんは、山や海にいく
木の実や魚が捕れる。
今、目の前にあるもの。
それを、いろいろなモノたちが見えなくする。
お金が使えなくなった時、目の前の自然の恵みを思い出させてくれる。
Cさんが話しかけてきてくれた
楽しい時間、なんでもないような時間。
そしたら、今の状況についてこう語った
「私もこんな状況。もっとしっかりしなさい」
ホントね。何やってるんだろうね…
いい加減結果を出したいですよ(o _ o。)
同じ内容が視界に映っても、見てるものは一人ひとり違ってくるみたい。
その人が認識できる範囲で、一番近しいものとして映るから。
例えば、誰かが「故郷」という響きをイメージに焼き付けたとする。
すると、一人ひとり思い描く情景が違ってくるのです。
ある者は、あの場所で。また別の者は別の場所で。
それが鮮明なカラーではなくセピアの情景かもしれないし、モノクロかもしれない。
写真のような影像かもしれないしCGのような形や、或いはアニメ調かもしれない。
その人が関わってる中で、一番近いものに、それは姿を変える。
今見えてるものは、事実だけどそれが全てではない。
表層よりも、その存在理由を問う。それが何であるか?
夢の世界を人に伝達する時
イメージをどんな形にすればその人に伝わりやすいか?
そういうのも意識して描くのも必要なんだろうと想いました。
興味深い記事を見つけたので考察。
http://labaq.com/archives/51806891.html
前回書いた「夢の情景」についてのコラムをもとに考えてみると
一つ見落としているのに気づく。
それは、人間が認識してないものを猫が見ている可能性があるということ。
色付きの写真、思いっきり人間ベースですね(o _ o。)
それが猫の視界ではぼやけてる。そうなんだー(。◕ ∀ ◕。)ノ
でも、ぼやけた視界の先で猫が何を見ているかまでは
比較の写真ではわからないでしょう。
なぜかって、人間には肉眼ではっきり見えない世界。
それを人間のツールで再現することは難しい。
そういうのがきっとあると思うから。
だから、猫の視界を人間に分かりやすく例えようとしたら
写真のように色とぼやけた視界、でしか映らないのだと思う。
夢で、記憶の中の情景しか再現できないのと同じだ。
はてさて、猫さんは何を見ているのかにゃ〜?(‘ ‘*)
それはねこのみぞ知る。