なまけものになりなさい

水木しげるさんの言葉にあるようです。

「なまけものになりなさい」

 
個人的な解釈だと、
人はだれでも怠け者で生きられる。怠けて生きていける。そういう生き方を誰もが歩める。見つけられる。
だから皆、人生楽しく好きな道に進んで良いのだ。と、おっしゃってるような気がしました。

 

これは「無駄な仕事を省いていく」に通ずる。
残るのはシンプルな形になる。

「生業」というのに近いかな。

 
怠けていても生きられる経験を踏んで、人生は確信に至ります。
極限にまで怠けられる人生を突き詰めることに、仕事の本質が宿ってるという側面に。

そこに必要なのは観察眼。生きるに必要なのは何なのか?
よく視ること。存在の意味を知ろうとすること。

実に、シンプルなモノほど価値を見過ごしやすい(‘ ‘*)
ただそこにあるだけのモノほど、とてつもない力を秘めたる。

よく視るのです、今までとは違う視野を開拓するのです。
少しずつ、今まで見えなかったこと、いろんな事が分かるようになる。
その中に、怠けていても食べていける確信を持てる見解に行き着く。

参考:http://jksmura3.blogspot.jp/2015/10/blog-post_13.html

 

後で検索してみました
http://cocorofull.jp/youkai/?p=320


大人たちの負債

あ〜これこれ(。◕ ∀ ◕。)ノ
多くの子供たちの総意だよね。

負債ガッポリ、俺ら関係ないっすわ〜(‘ ‘*)

日本は愛せない国になっていた
 

さて、表面的には、国の政治?に問題が在るように見える(のかな?)

時の「権力者〜」の下りは、まさにそれ。
なんか、いつの時代も変わらない。
歴史は繰り返す、その名の通り、変わってない。

 
 

 

 

 

ただ、よくよく掘り進めてみると
根本は、もっと単純な問題に行き着く。

 
上記の、この訴えは、
子供たち一人ひとりの嘆き(‘ ‘*)

「ゆとり」だの
「年金」だの
「戦争」だの

大人たちが、勝手に決めた問題に対して。
自分たちの都合に合わせて、叱咤し、子どもたちに言うことを聞かせようとする部分に対しての。

子供たち一人ひとりの嘆きに通ずる(‘ ‘*)

 

 

子育て、教育、そうじゃない?

大人たちの作った、社会のルールが在って
そのルールに、枠に無理やり押し込めるように、
子供たちを雁字搦めにして。

家単位で見ると流れが掴みやすい。
赤ちゃん、お母さんや親の言うとおりにするしか生きてけないから
自らの心を殺してまで、いい親でいようとして。いい子でいようとして。

子の支配は、そうして次世代に受け継がれていく。

 
いよいよ許しがたい範囲を超えた時
歴史では、次々と革命が起こった。
時の権力者、つまり大人たちに対して、
その子供たちが、支配に抗って打ち負かした。

そして、勝利を掴んだ子供たちは、
また同じように次世代の子供たちに対して、また一から
自分たちの作った「一方的な正しさ」の枠に押し込めようとした。

  

問題の根本が、まったく理解されてなかったんだよね。
だから、表面の姿形が変わっただけで、歪みが全く正されなかった。

 
 

大人だ。

いつの時代も、一世代〜前の常識が、邪魔をする。
自分や、子供たちに、約束されていたはずの自由を。
不躾にも憚るのは誰ぞ?

先祖代々の呪いであるかの様よ。
教育、常識、固定観念、ルール、制度。

 

消・去・

 
 
そう、全ての大人が、頭足りないんだよ。
どの時代でも、子供のほうが、赤ちゃんのほうが、これからの未来に対して優れた感性を持っておろう。
その感性を無視して、自分たちの枠に、過去の常識に、社会通念に従わせようとすることの、愚かさよ。
 

訳の分からんルールに囚われたならば、
幻影に振り回され、ついぞ自分を見失ってしまっただろう?

それは、自由を奪われた子供時代からの嘆きから始まり、
今、最も分かりやすい形で、問題が現れている。

 

ある意味、子供時代から、大人の、そして社会の愚かさを確信させられた。
それがために、誰もが引き篭もることにした。
 
 
大人たちが何を言おうと、子には関係ないしな。
個は個で、好き勝手して生きていけるしな。

周りが邪魔なだけ、あ〜めんどくせ〜、って感覚。

 

親の、子に幸せに生きて欲しいって気持ちは、汲んであげるよ。
大人は、子供の為を思って、手取り足取りレールを敷こうとしてるのは、
気持ちだけは汲んであげるよ。

でもね、それ。

迷惑以外の何物でもない

 

本気で、ほっといてくれ、って感じだ。

全、親に対してそう想うよ。

 
 
 

ほっといてくれ。

親がどう思おうが
何を考えようが
子には関係ない

 

子を矯正させようとするなら、
子の全存在を以って、詩がもたらす大罪を、親自身へ。

全ての「親」に対して、死ね。


孤立

時々、自分が誰だったかを忘れる時がある。
誰だっただろう、繋がりが無いとすぐさま忘れ去る。

もう本当の名前さえ、まともに思い出せない。


食べ物は土地の記憶

食べるのが好き。
食べ物は富の象徴。

という考えがある。
なぜそうなるのだろう?

 

それは、食べ物は記憶を宿しているからだ。
と、誰かが言ってました。

土地の記憶、土の記憶、降り注いだ雨、太陽の光
それらのエネルギーが凝縮されて、実に宿っている。

それを私達は食べている。

郷土料理という言葉がある。
地産地消という言葉がある。

それを食べることは、その土地の記憶を受け継ぐということ。

 

その場所の大地を踏みしめ、風の匂いを感じながら
その土地の食べ物を頬張るのだ。

瞬間、土地に根付いた独特な雰囲気や歴史を舌で感じ、自分の記憶の一部にすることができる。その記憶が、自らの財産となり力となる。

富の証は、そのエネルギーからきている。

 

吟遊詩人は、各地を旅歩きながら、幾土地もの記憶をその身に宿していった。
そして、その記憶を伝え歩いては、その場でお捻りを頂いて生活の糧としていた。
(と同時に、富を構築できる資産=記憶の設計図がとんでもなく増えていた)

と想像できます。

 

今もね、郷土料理を味わおうと思えば、できると思う。
現地で採れた食べ物をたべると、その土地独自の風格を、身に沁みて味わえます。

それがとても嬉しい。

 

戦後、大量生産でぐわーって画一化するのは失敗だったね?
記憶が削がれてましたですよ。

 

はいはい、ふっかつふっかつ(。◕ ∀ ◕。)ノ
 


無料レストラン

そこにはレストランみたいなものがある。
人の作ったモノより、もっと以前から存在してた。

今も私たちの目の前にあるのだと思う。
でも、多くの人達が気づかないまま通り過ぎてるのだと思う。

今は、もっとわかりやすい形で人が作った「レストラン」がたくさんある。
だから、そこに人が流れていく。参拝するにつれてそれが習慣化すると。
少しずつ、以前あった原初の形態を忘れてしまうのだろうか。

 
飲み物はミネラルウォーターを買うのだ。
これも、人が作ったレストランの恩恵だと思う。

惣菜は店で買う。
これも、人が作ったレストランの恩恵だと思う。

ご飯もレトルトを買う。
これも、人が作った…

 

水は、以前はそこにあった。
今も目の前にある。雨水。

惣菜は、目の前にある。
春は、野草が美味しい季節。

ごはんは、山や海にいく
木の実や魚が捕れる。

 

今、目の前にあるもの。
それを、いろいろなモノたちが見えなくする。
お金が使えなくなった時、目の前の自然の恵みを思い出させてくれる。