自分の世界に存在しないモノ。
かつ必要のないモノは。
スルーが素晴らしい(。0 _ 0。)ノ
元から必要ないのだから、関係ないもの。
エネルギーは好きなもの、必要なモノに集中して費やす。
世界がどんどん拡がっていく。
要らないものって。
相手にしなければ、存在は消えるね。
存在が消えるから、相手にしなくていい。
スッキリね(‘ ‘*)
あと、言葉にも。
会話の中で、出てきた言葉にも。必要ない限り
「私だったらこうなのに」論、無視。
望みのキーワードのみに焦点をあてるんだ。
その存在を大きくすることができる。
器の大きさは、スルーで養われるかな。
0の感情ね。
波も沈まる冷たさで。
皆も静まる冷たさで。
何モノをも聞き流すことで、心クリアね(。0 _ 0。)ノ
ストレスって、エネルギー枯渇状態の現れだね。
うわー、報われんわー(‘ ‘*)
だから、食べたくなるのね。無性に。
甘いものもだけど、肉とかね。
あれ、お前らも俺の苦しみを味わえってメッセージなんだね。
⇒ 食肉がもたらす惨劇・絶望感
家畜に対してね。家畜の苦しみを味わえって。
ははw そういうの自分に跳ね返ってくるじゃんか。大変だね。
で、・食べてきました。
木の実(。◕ ∀ ◕。)ノ
今の時期だと、干し柿です!

渋柿だけど、熟し柿です!めちゃくちゃ甘くて美味しいのです。
お庭の木の実です!!!!
天国にも昇る気持ちですわ〜(‘ ‘*)♪
自然の木の実は、無限のエネルギーが詰まっとる。
一瞬で、天にも昇る気持ちになれた。すばらしい食べ物だ。
ケーキより肉より、木の実だわ(‘ ‘*)
すげーな。庭の木。大家さんの木。
エネルギー切れ補給。
そして、無駄なもの撤収。
は〜、生き返った♪(‘ ‘*)
して欲しいこと、しないの。
望むものは、その対極に授かる。
自分が、マッサージされたいとき。
こちらから相手にマッサージするんじゃない。
寝っ転がって「ここ押して?」お願いすればいい。
温まりたいとき、安直にお湯を使うだけが手ではない。
最後に身体全体を水で冷やす。すると周りを温かく感じられる。
「愛」して欲しい時、足りない時。
欲しい「愛」をこちらから送るのは、よくある間違い。
たいてい、自分が無理して気枯れして終わる。哀しや。
反対をするんだ。受け手に徹する。
例えば愛するって、こちらから何かするってことだと思う。
反対の「愛される」は? じっと視る、ただ受け入れる、そして相手の存在を理解する… だろうか(o _ o。)
愛されたいなら
自分は、相手の存在を受け止める…受け皿に徹するわけだ。
器の大きさが問われるわけだ。
男の人は、従順な女性を好むという
女の人は、自分のありのままを分かってくれる人に夢中になるという
ふむ。。。
少し視えてくるようになるだろうか。
視る、見つめる。存在の奥底。
何かして欲しいとき、自分は空っぽの器になる。
そのまま理解し、受け入れる姿勢こそ、求められる。
結局は、理解すればするほど、相手の望みを適切な形で叶えてあげられるようにもなるしなぁ。。。
話すの苦手とか致命的じゃな。
まず語彙が思いつかん。
あれでしょ、これでしょ。。
あの言葉の言い回し何だったかな〜(‘ ‘*)
ちくたくちくたく。
ちーん(。◕ ∀ ◕。)ノ
そんな感じ。
本音は、心から直ぐに語られる。
言葉は、なぜに頭で考える?
今まで、ずっと言葉を選んできた。
お話するときも、何かを書くときも。
それは、ありのままに伝えきる決心がつかないことから。くる。
本心、それは、相手に伝えるべきでないと判断すれば語らず。
逆に、ここまでなら伝えられると判断した時、その境界線に応じて文脈を作り変える。
そんな感じ。
頭で考えていた理由は、そのまま伝えきる度胸を持てないからだ。
自信がない?
とかかもしれん。
傷つけるのが怖い?
かもしれん。
争いが怖い?
そりゃ、面倒事は避けたいわな(‘ ‘*)
よって、本心の中の、攻撃的な部分や、否定的な部分、相手に伝える必要のない、自分にとっての真実の有り様とか…は、沈黙で語るのですよね;;スルーの方向で(‘ ‘*)
マスターから注意されました。
「言わんと分からんやろーモン(笑」
まぁ、大切な人たちとの語らいならば。。。
少しずつ、少しずつ、地を出していけるのでしょうか。
では誰かのお話を聞いていて、本心を有りのままに伝えるとどうなるのか(。◕ ∀ ◕。)ノ?
今まで面倒くさくて「そうなんですね、そうなのかぁ」で話を終わらせてた部分(笑)が…
(。◕ ∀ ◕。)ノ「なんで? ねぇなんで!? どうして?! ねぇったら、ねぇ!」
(ねぇ、ねぇ!? それなんで? どうして? わかんない、ねぇ、なんで??)
あ、こりゃ・・・
幼少の子のセリフそのままではないか(o _ o。)
そうか、周りの人のお話の内容とか
世の中は意味の分からんことだらけだもんな。
子供の感性だと、聞きまくるよな。。。
大人になって、自分と無関係なことは知らんってなってからか。
自分一人で十分に生きていけるし成長もある、と判断。
違う世界のどーでもいい話とかシャットアウトだもんな。
無意味なこと(自分と無関係なこと)で延々と話を聞くのは面倒くさい。
いつの間にか沈黙、聞いたフリ、言葉喋らずだったわけか。そうかそうか。
本音を語れない理由、こちらから伝えきれない理由。勇気が持てない理由。
それ「おっはなっししよーー!!!!」って心が全然足らんかったわけか。
人間が怖い
というか嫌われるのが怖い。
他人から嫌われるのが嫌で、嘘の仮面を今日被る。
嘘の仮面を自分が被るから、
他人のことも、仮面を被った偽りの表情として視えてしまう。
そんな中で、自分は正しくあろうとして、何が何なのか分からなくなった。
この日、おそらく彼女の居る世界に、僕も居た。
彼女と、彼女のお父さんと、彼女のお母さんと、自分とで喫茶店に居る。
朝ごはんに誘われ、昨夜少し彼女と揉めた分の仲直りと、家族でそのフォロー。
この時、彼女のお父さんから直々にアドバイスを受け、最初に周りを受け入れることが正解の第1ステップだというのを納得して聞いていました。
その時、そこで思考がキャパオーバーした。
それを受け入れる時、自分が何が何だか分からなくなってしまった。
(まぁ、「周り」の有り様自体が、最初よく分からないものだし)
。。。。。
家に帰り着いた後、買ったばかりのオーブンの、ガラスの外面を割ってしまった。
ちょっと躓いただけで、ボロボロと崩れ落ちてしまった。
これは普通のガラスの割れ方じゃない、脆すぎる!
外面が割れた今、中面が丸見えだ。
混乱した。
高かったのに、前回も初期不良ですぐ交換だったのに、既に二度手間なのに。
結局1回も使わないまま、外面が割れた状態になってしまった。
また交換? これで3回目? しかも今度は自己負担?
。。。
。。。
このままで行こう(‘ ‘*)
うん、使える。
むしろこっちの方が安全じゃね?
(脆いガラスで覆うくらいならこのままで)
割りきった。
だが、ここで終わらない。
混乱した想いを拭えないまま、風呂に入る。
うちでは、洗濯も同時に手洗いだ。
今度はうっかり、ズボンに携帯を入れたままだった。
携帯が沈没した。すぐ引き上げた。
が、電源が入らなくなってしまった。
中のメモリはどうだろうか?
明日、確認せねば。
。。。
なんか、自分が何やってるか分からなくなった。
もしかしたら今日、そんなこんな干渉が起こったのかもしれない。
これ、彼女の見てる世界の一部なのかもしれない。
何をやっても上手くいかない。
タイミングを外される。
自分を分からなくさせられる。
ふんだり蹴ったり。
それでも必死にあがく。泥沼。
なぜだ!
今は動くべきじゃないことを、時が教えてくれている。
今は落ち着いて頭を休める時だと、何かが囁きかける。
何がマズかったか。
振り返ればここか!?
100%「受け入れる」なんて、そうそうあり得ないんじゃないか。
個人ならまだ分かる、だが、対複数の場合は厳しい。
すべて「受け入れる」という言葉を鵜呑みにしたらば…
1:1の関係なら話し合いで調整可能だが
1:集団での場なら、自分が集団の波に飲まれる、自分自身を分からなくさせられるケースが殆ど。
複数人に対し、イキナリすべて受け入れるのは、個人の器じゃキャパオーバーになってしまう。
集団とは実は、身近な家族にもなるだろうか。父と母、と子ども。
この時、子どもに対し、父と母が結束してこうだ!っていうと、本当にそうだと信じて疑わなくなってしまうみたい。狭い常識、思い込みというのはこうして作られるのかもしれない。
自分は、こうでなければならないと、錯覚してしまうから。
待て! 自分の意志はどうなんだ? どこまで許容できるんだ?
生まれた時から、子どもは一人前の人間。
自分で考え、選択し、行動する力を持つ。
始まりの時から「ありのままに、自分の意志に忠実に生きる!」という
一つの存在としての、純粋な想いを宿している。
自分自身の想いを軸に、父や母の言い分をどこまで許せるか、どこで許容出来なくなるか。
線引を明確にすることが大切。それが「自分の意志」を護ること、「自分をしっかり保つこと」に繋がる。
外面が割れようと、周りの気分が沈もうと。
ありのままのその状態に意味を見出せる、想いの強さが培われる。
どんな時も落ち着いて、自分の想いを胸に、そのものを冷静に見つめるんだ。
ありのままに相応しい答えを、もう一度練り直す(o _ o。)
・・・・
ああ、あの子には自分の考えというものが見れない!
そうなんだ! 最初はあったはずのそれが。
複数人の場で言い聞かせることを繰り返すうちに、自分の考えが正しいかどうか分からなくなり、それならばいっそ、両親たちの教えが間違いなく正しいのだ!と思い込んでいるのかもしれない。そうやって自分の考えを捨てて来たのかもしれない。
一見、言い聞かせる言葉は正しい、が落とし穴。
この先自分は、どんなふうに生きればイイの?
親が付いていないと、何も正しくできなくなる。
だから、あんなに家族が大事。じゃあ、皆居なくなった後は???
今日の場合も、確かに彼女のお父さんの言い分は正しかったんだけど
あの時、あの場において、自分の受け取り用は「YES」しかあり得ない状況だった。
子ども(この場合は私)の意志関係なく「全てを受け入れろ」と同等の場面が織り成されてしまってた。意図せず(?) なっちゃってた。
あの場合は「彼女」を受け入れることが第一なのだからそれで正解なのだが、あの状況で「周りも」含めるとなると話が違ってくる。(その中には生命に関わる危険も孕む)
考えれば諸刃の剣だった。
結束した大人に対して反論のしようがない。
父と母が結束して子どもに言い聞かせるのは、子どもの意志を蔑ろにする、ひっっじょうに危険な行為だということを身をもって体感したんだ。それこそ「常識」に食い破られてしまう。
集団で言い聞かせることは、あってはならなかったんだ。
それを受けた本人は、他人本位な正しさを前にし、多数決でYESを矯正され、自分を殺されてしまうから。
どんな場合も言い聞かせるのは、1対1の場合でのみ許される行いなんだ。と考えさせられた。
これは、自分を育ててくれた母と、それからマスターが常にそうであった。
1対1の関係であるから、しっかりと教え、伝え合うことが出来ていた。
マスター、周りにお客さんや顔見知りの人が居る時は、私のどんな粗相も見て見ぬふりだ。
絶対に、マスターと私の二人だけの時。1対1で話し合う場合にのみ。
ある時の振る舞いに対し、お叱りの言葉やアドバイスをいただけていた。
そして必ず、後の言葉にこう続く
「〜〜、と俺は思うぞ」と。
一意見として、選択の自由を与えてくれていた。
ああ、自分は救われていた。
殆どの話し合いの場で、自分と親が対等だったと気づいた。
だから親がどんなに叱っても、怪訝な表情を見せても。
自分は自分の考えを、しっかり持てていたんだ。