現実を観るということ

大切な記録。
夢を見る時、よく過去を振り返る。

過去は遺産。
それに目を向けずして、何を得られよう(o _ o。)

「過去を振り返るな、前を見て生きろ」

 
何となく格言っぽい言葉(‘ ‘*)
これ、使いようによっては言葉の暴力ね。

 
限定的な状況では間違ってはないけれど、
ロボットのようにこの言葉を鵜呑みにすると
場合によっては、大切な部分から目を背けられてしまう。

今、今誰かがやってることは、過去の思いが産みだしたもの。
現実のディティールは、表面的なものでしか無い。
根幹の部分は過去にある。

現実のディティールの奥には、過去の思いが隠されている。
そして過去の思いは、未来への成就に向かって意志を発し続ける。
その過程として現在がある。

 

今が大事。今、今、今!!!

そう、間違ってない。
乗ってる時はそれでいい。

今を生きることで過去から未来の流れを同時に体感し、
今、自分の理想に向かって突き進んでいるという喜び。
その流れに乗っかって何処までも進んでいける。

それが今を生きるということ。

 

だが、その視点が実感できないのに

「今が大事、現実が大事、前を向いて歩こう。」

 
そんな言葉で強制されてしまったら、その人は…
自らの意志や目的意識を見失ったまま…
表面のディティールでしかモノを見なくなってしまうでしょう?

多くの人が、そうであったでしょう?

 
どうでもいい世の中の動きに組み込まれて、
今日もいっぱい働いたね(‘ ‘*)
えらいね、よしよし。それで終っちゃうのです。

 
特に、自分のことは後回しで無理して頑張ってる人。
過去を振り返って、こんなはずじゃなかった!
さぁ、本当は今、私は何をしていたかったのか?

過去の自分に問うのですよ。

 

現実は、過去と未来の流れの中に存在する。
現実を観るということは、過去を振り返り、未来に託した想いを観ること。

だから今、現実から目を背けたい時、逃げ出したい時
一度原点に立ち返って、幻想の世界を自ら作り出し、自分が成し遂げたかったこと
それを改めて確認しにいってるのです。

根幹は過去の原点にあたる。
お誕生日、生まれた場所、太陽と月、星の巡り。
そこから受け継いだものを得て、この世に純粋な生を受けた。

 
年に一度のお誕生日に、湖に潜って星空を観るというのは、原点に立ち返る。
そんな意味があったのですね(‘ ‘*)

一度過去に立ち返って、かつて自分の中に在った自由で純粋な頃の想いを照らします。
自分はこんなふうに生きていたい。純粋な願いが、過去から現実に呼び起こされます。
それが、共に理想の未来に向かって進む原動力となるのです。

これが、真に現実を観るということ。想いを観るということ。
そうすれば、真の現実の姿をもって進んでいけるということ。


お供え物のほんとうの意味

供物。主に神仏にお供えする物。食べ物。
これは、神様や仏様の為に一方的に捧げるものではない。
 
 
神様に食べさせる、という視点を変えてみる。
古来では八百万の神といって、ありとあらゆるモノに神が宿ると考えられていた。
私達にも、土にも、木にも、水にも、そして食べ物にも。

 
収穫した作物は、形の良い1割を残すでしょう?
あれは自然の神様に捧げるための供物とも見れるけど、そうじゃないですね。
大地に食べさせて、新たな種を根付かせて、来年もまた立派に実りますように。

そこが本来の目的ですね。

 
食べ物のお供えも、一方的に神様に捧げるのでは無かったのです。
発酵という考え方があったのですよ。お酒も漬物も味噌もお米も。
当時の目に見えない神様の名を一つ現すと、おそらく私達には乳酸菌という言葉で通じる。

その見えない一粒一粒の粒子に、食べさせるのです。栄養素を。
そして発酵させる。そしたら、その供物がさらに美味しくなって返ってくる。
コレを、古代の人は知っててやってたんだと思います。

 
こういった体験を経て、そこに気が付きました。

http://goldenflower.jp/blog/2329

 

現在、供物については一部で誤解されてるフシがあるような気がする。

生贄とか? 自らが犠牲になるものではないと思えてきます。
邪神だったら知らん(‘ ‘*)

一方的に捧げて、ゴミにしてしまうようなモノはお供えとは言わない。
誰もそんなムダなことしない。捧げた品物に対して失礼に値する。
決まり事みたいにお供えお供えでなく、本来の目的を忘れてはならない。

自らの成長を祈って、神(菌?)に介して、醗酵させて、再び大地に根付く。
自分たちのために、身を清めて自ら熟成させる、という考えに至るはず。

皆のために供物が犠牲になるというのはお供えではない。
自らが望んで、成長するべくして神に供え、身を清めていたのだと感じます。

 

神様の一部は…
見えない菌…

 
ありとあらゆる物に宿る。

 

 

なるほど。現代の風刺画、見た。
殺虫剤、抗菌剤、薬剤、洗剤、溢れていた。

。。。

思い返せばコレって、節分の豆撒きの話と重なるのですよね。

鬼は内、福も内

 
云うなら、皆さん知らずに神殺ししてましたよと(‘ ‘*)
そしてキリストでいうところの禁忌、偶像の神を崇めてましたよと。

「”It is done.”(やっちゃったわ!)」

 
そんな感じになるのでしょうか。大変ですね…

 

神様は身近にいるんですね。
もっと活用してあげると喜ぶと思う。

みんな対等な関係なんだから。


木の年輪の音

これが自然のなせる音楽の姿なのか…(‘ ‘*)

http://whats.be/4676


存在の起点を観る

存在の起点を観る。
それが存在してる理由を観る。
その人の意志を観る。

骨の形
音の形

 
はっと気がつけば
このような言葉を思い出しました。

「殆どの人は雰囲気でしか判断しない」と
「だいたい9割ね。顔の表情や服装、表層のオーラで判断する人が殆どね」
「ほんとうの意味で、その人の存在を見てる人はとても少ないの」

 
そういえば、私もそうだな…
と、思いました。

顔の形、表情、雰囲気で人となりを判断している。
服装や言葉遣い、周りの付き合ってる人、所属してる場。

それで判断してるなと、思いました。

 
確かに、表向きそれで判断は出来るのです。
ただし、見えてる部分はその人の一面でしか無い。

付き合う人が変われば、人柄も変わるように。
職場が変われば、自分を取り巻く状況が変わり、自分の有り様も変化するように。

表層のオーラ、雰囲気、表情の作り方で判断できるものとは、
直接的で一時的なものなのだと。思い直しました。

 
その人の本当の姿を観るにはどうすればいいのだろう。
すると、記憶の中で確かに聞いていたのです。

「骨の形」
「観るのは想い」
「思いの起点は、腹の内」

 
人は、自分の意志で生きる時
本来の姿に立ち返る。

古代では、嘘が通用しなかったのでしょう。
けして、隠れて悪さは出来なかったのです

 
だから、かつてより奴隷制度が作られたのかもしれない。
自分が自分に嘘を付いているとすら気づかないような
言われたとおりにしか動かない人形。

彼らを使えば、隠れて裏で操作して、悪事が出来るようになるから…

 
表層ばかり見てたら、その人の本当の想いは見えないけれど。
そこに気づいた時、少なくとも自分の周囲に嘘は無くなるでしょう。

もっとクリアに、周囲が見えやすくなると思う。
すべてが明るみに出れば、因果応報が分かりやすい形で返ってきます。


永遠の生

まるで当サイトの物語の副テーマ。みたいな?
姉妹サイトにて、このような記事を書きました。

http://goldenflower.jp/blog/2270

 
これは、前回の記事でも書いた「醗酵」の瓶の様子を
人の寿命に見立てた記事です。

現代の人は、何もしなくても125年は生きられる構造に成ってるのだとか。
そういったことを基準に、さらに寿命を伸ばす方法について考察してみます。

題して永遠の生を得るアイデア。

 
瓶の中は玄米と水と塩。
これは、人の体ではDNAと水分とミネラルに置き換えることが出来る。
瓶が人の器ね。肉体ね。

瓶の中で醗酵を続けることが人として生き続けること。
醗酵が止まったら生命活動を終える。

そして中の溶液が、これまでの人生の証として残る。
「人生の記憶」を宿した水。

乳酸菌の瓶で醗酵を続けるなら
そこに新たな玄米を足すのですよ。
その玄米はどこから来るかというと、一度玄米(DNA)を土に還して
大地の恵みとお日さまと水の恩恵を受けてすくすくと育った稲穂から、新たに補うことが出来ます。

生と死の循環の中に、ヒントが有るのですね。

此処でのポイントは、醗酵を終えた溶液はいったん役目を終えるが
その前に、生きてるうちに玄米を2手に分かれさせる…
つまり、瓶の中で醗酵を続ける玄米と、土の中でDNAを増やす稲穂と同時に存在させることで

乳酸菌の瓶は若さを保った状態で、生を永遠に循環させることが出来る様になる。

古代、人々は1000歳近くまで生きていた。

ことが聖書にも書かれてるけど、本当にそれくらい生きて当然なのかもしれない。

私達のDNAは、それのみでは細胞分裂に制限がある。
けれど、一部死ぬことで土に帰り、種が発芽し、実がついて、
新たに実った新鮮なDNAが器に戻れば
もしかしたら…

そういえば一時期STAP細胞なるものが話題になりましたね。
あれ、稲穂を育てて新しい玄米を補うという例えでいいのかな?

今、そんなことは到底不可能なように思われるけども。

もし、生をもつDNAと、死して土の中で育つDNAと、同時に存在することができれば
両者を両方共自分として意識を保てていれば、永遠の記憶を保持できるかもしれない。

瓶の中だって、新しく実った玄米を土の世界から補ってくれば
同時に、今瓶の中にある玄米の一部を、土に埋めて育てることができれば

醗酵は延々と続くのですから。

人に置き換える手段はよくわからないけれど、
実現は可能なのかもしれない。

 

あくまでも死の世界(土)において、
稲穂を育てる大地の恵みと、太陽の光と、水が必要なのですけどね。

永遠の生は彼らがもたらしてくれるものだと思ってるの。

 
おそらく古代の平均寿命は、今よりもっと長かった(o _ o。)