死の概念に触れる

死後の概念に触れる

おじいちゃんの夢からもう一つ、死後の世界がどういうものかを感じ取った。
前記事→おじいちゃんの夢の園

人によって捉え方は様々だと思うのだけど、共通してる部分に時間の概念がないことを把握。

つまりは一瞬であり永遠でもある世界だ。
どういう事かと云うと、過程をすっ飛ばして、一瞬で完成形の世界に到達してしまうというもの。

調和の形、星は回るよ、くるくる。
種は芽を出し、成長して、実を成す、枯れて、でもそこから種が零れて、また芽が出ての。
木の場合は一瞬で大きくなり、朽ちてもまた新しい芽が出て、ずっと繰り返すうちに、その光景には一定のサイクルが出来上がる。

水、水は絶えず循環する。風も…

彼は歩む。
そのスピードは心臓の鼓動のよう。
早めれば移り変わりも早まり、ゆっくりになれば変化も緩やかに。サイクルの終着点は、変化しながら延々と続く世界となる。

生まれ変わる命は、若い時もあれば老いた時もあり、男の時もあれば女の時もある。なるほど世界の主は一なるものだが、その姿は一定ではない。

神の存在もそうなのだろうか?

ふむ、話を戻すか。

その人の、生きた間に構築した世界の延長が、死後に存在するんだ。成そうとした生き様の完成形、時空を超えて延々と続いている。

おじいちゃんはおじいちゃんになってから畑を耕し始めた。
そのお陰で小さな私は、食べ物がどこから来て、なぜ生きていられてるのかを知った。

おじいちゃんは、きっと見せたかったのだと思う。ただ生きてる間にできる園には限界があった。
けれど、先の意識に触れることはできる。日記帳。記憶。触れた先に、永遠の時を夢見る。
このまま彼がずっと生きて耕した先に何があるのかを。私は見たのだと思う。

夢が目標になる限り、彼の想いは受け継がれ、私たちにとって現実となる。
何百年、何千年と続いていく世界。もしその場所が素晴らしい光景ならば、天国に感じられるだろう。

自分が生きた延長線上にあるもの。
このまま永遠の時を生きると仮定した場合、日々の生活の中で自分は何を消費し、何を創り出しているのか…周りにどんな影響を与え続けて最終的にどう変わっていくのか?
自分の意志は、どこに向かっているのか…
何のために生きてるのか…

実際に私たちが生きて目にしてる光景とは、終着点(永遠の世界)に到達する過程でしかない。

過程は目標に向かって、次第に現実味を帯びてくる。
その先が天国か地獄かは、自分の感性が知っている。

日常を積み重ねた永遠の先に人生の答えがある。

望ましい世界に向かっているなら◎
望まない結果にしかたどり着かない場合、できるところから別の道を探らないといけない。

生きている間にしか、終着点は変えられない。

もしも虚無の世界があるとすれば、永遠の時を経て、ただ朽ちていくだけの世界。。

でも、ただ一つだけでもいい。
永遠性を宿す何かの種を蒔くことができたなら、世界の在り方は随分と変わってくるだろうと想う。


オオカミの魂よ

オオカミが自然に帰れば、里山の生態系は復活する。
自然は、本来の姿を取り戻すだろう。

http://stonewashersjournal.com/2014/09/23/jpwolf/

 
じゃぁオオカミは何処にいるのか?

狼の遺伝子は犬の存在に隠れておるのよ。
とは言え、鎖に縛られたまま主人に尻尾振る奇形では話しにならんがな。

放し飼いにできるほどの十分な足場と、自ら食べ物を獲得できるような環境が必要だ。 そいつが何者か? 決めるのは遺伝子だけじゃねぇ。
そいつがそいつ足らしめる周りの環境だ。

必要な物が揃っていれば誇り高き狼となれる。
がちがちの街中では無理だが、里山ならできる。

 
目の前にいるんだよ。そいつは。
一般社会の環境がそいつ本来の能力を封じてるにすぎん。
 

飼いならされたM愚犬、哀れな存在ども。
お前ら一生奴隷か? 自立せよ、自らに責任を取れよ。

自分の選択に責任を持てないと、いつしか命令してくれるご主人さまがいないと安心できなくなってしまうわけだ。
命令をする奴にじゃないと信頼を預けられんくなる。奴隷思考の恐ろしさ。
犬の存在が不自然さをさらに強調するな。

人々が社会の奴隷である限り、そいつは犬だ。
「〜しなさい」の格言が度々支持されるのは。 自分で責任を取りたくない人たちの指標なんだ。
その人達には、命令口調に従ってれば、間違ってても人のせいにできるから安心感=なんとなく説得力があるように聞こえてしまう。Mざーの技巧。

 
鍵は、奴隷思考からの脱却である。
生き様に誇りを取り戻せ。


おじいちゃんの夢の園

夢を見た。
おじいちゃんの場所にいた。
現実にあるお家より少し広くて、3階まである瓦の屋根の家。立派。

そしてお庭。
お庭の方は現実よりさらに広がりがあって、川の流れるとこもあった。
緑の園というより、どことなく光に青さがあって、色んな木たちが植わってる。何メートル置きか、あるいは仲の良い木同士が寄り添い合って…
色とりどりの、あの木は何て言うんだろう??丸っぽい大きな葉っぱの先がvの字に欠け、お日様の光に反射してやや虹色がかった模様に煌めいてる。

あと、草たちもいっぱい。
所々に花も植えてあって、薄紫や白い花、萌黄色の穂をつけた草木たちが、青い空間に優しい色味を添えていた。

なんて現実味のある…なのに見たことのないような素晴らしい園なのだろう!

これら全部をおじいちゃんは植えたのだ!

一体どんな気持ちであの木を植えたの?
どうしたらこんなに素敵になるの?

おじいちゃんに尋ねに行こうとした。
母に聞けばおじいちゃんは身体が弱ってて、離れの家…その園の景色に溶け込んでいる、現実世界で立てようとして立たなかった家…にいるようだった。

私は夢の中で目覚め、おばあちゃんの作ってくれたおむすびを朝ごはんに頂いて、おじいちゃんの所に向かった。

立派だったおじいちゃん。
あの木の植え方を教えてもらいにいかなきゃ!

そんな気持ちで素敵なお庭の中を歩いていく。家の前にきたら、腰が曲がって辛そうにしてるおじいちゃんの姿が。

私は思わずその姿に駆け寄って、涙ぐみながら言ってしまった。

「おじいちゃん、治るよね?良くなるよね?」

でも、その姿に泣きたくなるような感情が、先は長くないことを暗に仄めかしてた。

「泣きなさんな、泣かれたらまるで先が長くないみたいじゃないか」

そうして宥められつつ

「全盛期は20代だったな、もう身体がこんなにキツイ。今あの頃に戻れたらどんなにいいか」

おじいちゃんから零れ出たつぶやき。
それに対して私は応えた。

「大丈夫、おじいちゃんの20代の頃は此処の木たちが覚えてる。その記憶を取り出して、もう一度再現すればいいんだよ」

「そうだな…」

と言葉を交わして、僕らは一緒に歩きだした。
歩き出しはゆっくりと、そしてだんだん早くなるペースで。

「おじいちゃん?」

気づけば、駆け足でも追いつかないペースで歩いていた。

「おじいちゃん、どうしてそんなに歩くのが速いの?」

子供の頃に味わった感覚と同じ、一歩の歩幅の差があまりに大きくて、同じリズムで歩いたらどんどん距離を離される。後であの頃、どうしてワザとゆっくり歩くんだ?って怒られたっけ。悔しい思いをしてたのはこっちなのにね

私はとうとう全力で駆け出した。走るのは早いほうだ。なのに全力をだしても、おじいちゃんの歩くペースには追いつかなかった…

いつの間にか背筋が真っ直ぐに、その背中はたくましい姿で。

「おじいちゃん…!」

しばし走り疲れ、追いつくのを諦めた。その後に園の素晴らしい景色が残った。この園をおじいちゃんは作ったんだ。僕らに遺すために。

思わず涙が溢れてきた。
あまりに美しくて…

これがおじいちゃんの作りたかった世界なんだ。その道中に孫の自分は立っている。おじいちゃんの鍬とスコップを持って、私は現実に土地を耕し始めてる。

おじいちゃんの園は、おじいちゃんの場所にあった。
私の場所はここにある。私は夢から覚めて伝えた。

「おじいちゃんの木は、この場所に植えるね。おじいちゃんのことを思いながら植えるね。だから次はこの場所に生まれ変わって来てね。全盛期の記憶をもう一度、この受け継いだ場所で」

あなたのお骨も。いつかきちんとこの場所に還って来れるようにするから。
それまで待っててね。


未来予知は誰にでもできる

未来予知。
未来を予見すること。

さぁ未来予知は実に簡単になった(。0 _ 0。)ノ

十年後二十年後のことはまぁ曖昧なんだが、まずまず明日のことは簡単だ!

「何を食べて生きるのか?」

生きるために食べるものを想像する。
すると自動的に食べ物の調達するプロセスとかかる時間、それまでの行動が未来に予見される!

一般的に米主食なら一年!
木の実なら数年から数十年!
二十日大根なら20日(‘ ‘*)

食する内容によって、想定する未来を予め思い描く能力が備わる。

育ってから食べるまでビビビッ(‘ ‘*)!と。

ちなみに色々自給できればできるほど精度があがる。他の世界の干渉が入らなくてよくなるので。

あとは自身の味わいたい世界を創造して、独自の住みよいスタイルを作っていけばいい。

で、どれほどの未来を描き出すことができるか?は、それぞれの感性だったり関わる食べ物による。

昔の人は木の実も常食してた。
木の実と関わりを持つことで、実の成る何十年ものサイクルに目がいく、今の人たちより未来を予見するスパンが長けてた。

反対に今の社会は一年単位でしか物を見れないことが多い、そのせいでそれより先の未来を踏み外したり、長期的な負債を見えないふりできちゃってるのだけど…たぶんかつて稲作が普及したことにも起因するだろう。米作り中心の暮らしは一年のサイクル、如何なる田んぼも一年毎にリセットされ、同じような単調な繰り返しでしかなくなったから。稲作しか知らなければ、その先があたかも存在しないようになってしまう。…賽の河原は、思い込みや錯覚からもたらされている。

しかし未来は、そういった既知の概念を超えて、もっと自由自在に描き出せるもの。思い思いの素晴らしい世界が、誰の過去にも未来にも存在してる。

目を向けさえすれば。存在することを知っていれば。
その中から先の未来は予見される。
最も今の自分に望ましい形として。


最も悲しいのはコトバが理解されないこと

まるで風の音のよう。
そのコトバに感じ入るものがどれほどか。

土に触れる以前、食べ物は食材という感覚しかなかった。
食べて美味しい、そこそこ。な感覚でしかなかった。
食べ物の背後にある光景に、ずっと気付かなかった。

なんということだ!

もし自分で食べ物を育てる概念があれば、もっと多くのことに気づけた。

食べ物は常に!
人にメッセージをくれている!
彼らの育った光景を見せて「どう感じるか?」ずっと問いかけている!

目の前にある食事が、どのようにしてどのような経路を辿って口にできたのか。

地産地消の良い所は、そのコトバが感じやすくなるところだ。
さすれば味覚はダイレクトに伝わり、イメージが湧き、感情や自分なりのアイデアが浮かびやすい。

もし感覚が鈍ってしまってたら、何を食べてるか分からなくなってしまうものだ。

最も悲しいのは、コトバが理解されないこと。

そこに生きた命は見えるのか。
食べ物の見せるどのような光景が今の自分を形作っているのものなのかは。