自分は自分、どう思われようと関係ない

人から何を思われても気にしないというのは、違う領域で生きられてるからかもしれない。

 

人の気持ちが分からないというわけではないが、
他者の想いを読み取ろうとする時、どうしても自分の存在が消えてしまう。
自分の存在がどのような影響を他者に与えてるかの、視点が抜ける。

自分の他人に与える影響に関して、あまり関心が沸かない。
やりたいようにやって、それでいい。現状。

 
狭いのかね。
足りないのかね。


自己の存在の薄さ

自分自身の存在が消えている。
私は此処に居ない、居るのは何処か別の場所。

冷たい人に見られてたのは、幽霊に近い存在だからかも。
悲しさも寂しさも遠い。
 
自分自身を消して、色んな存在の立場でモノを観ることをしてる。
私の言葉は、たぶん異なる存在が発した言葉で、そこに私は居ない。

 

 

自分しかいない場だと、誰しもそういうふうに物事を捉らえもすると錯覚する。
しかし、現実に生きる人と触れれば、実は特異性であったのだろうか…と思いにふける。

自分の感情が遠い… 痛みも喜びも楽しさも、第三者として感じてる。
器が広いんじゃない、限り無く薄く、感情が遠い。大抵のものが素通りしてく。

 
だから、近く感情を発してる存在よりは、
淡々とそこにある樹や、地面、死の存在や過去を内包する土、
のイメージや感覚を受けやすいのかもしれない。

私の存在が、死者の記憶に混じって遠い場所から見下ろしている。
目の前のものを、すごく遠い目線で。
現実的な響きが薄いのは、存在が遠いから。

 

生きているのに其処に居ないというのは、
側にいる人にとって見れば

「一緒にいる意味あるの?」…他人の見てる領域と、遠い存在の領域が重なりあう場所。
夢の世界にほかならんのではないか。

私は夢に生きているようだ。


視界は音

視界は音としても捉えられる。

光も色も周波数をもつ波、という点では音と同じ。
目の前のあらゆるものを音(振動)としてとらえた時、今まで見えなかった部分に気づくようになる。

音、感情の波。虫のさざめき。葉のこすれる音。光の音。


清浄

穢を知る。

穢の中を駆ける。

清浄。内なる魂に。

自らを奮い立たせる輝き。

穢と対する威光を呼ぶ。

 
清浄。

穢の中より駆ける。


全てを受け入れるなんて出来ない

生命の時は有限。

全てを受け入れられるのは無限であるものだけ。

時間も場所も猶予も、有限な肉体には限りがある。

人生は、選り分けることが重要だ。