時間は相対的なもの

うちには時計がない。
おおよそ、日の陰りと外の雰囲気で時間を図っている。

だから私は
時間というのは相対的なものだと感じている。

 
夏は昼がゆっくり進む。
冬は夜の時間がゆっくりだ。

 
1時間の長さが、1秒という長さが
時期によって変わるんだ。

時間は相対的なもの。
時計の針は正確じゃない。


創作意欲を掻き立てるのは、自由奔放な描き方

総じて完成度の高いものではない。

自由で、はちゃめちゃで、しっちゃkめっちゃk.
作者はやりたい放題で、ちょーぜつ意味不明。でもなんとなく心地よい。

そんな作品に触れると、私は心の事線に触れたように、文字がしっちゃかめっちゃか踊り出します。

なぜって。
言葉の羅列にカオスがくる。

しっちゃかめっちゃか。
文字が自由に踊り出す。

たいやヒラメも。
手のひらを返したように。

舞乱れるので、っs.
そんな感じで、言葉の音が、独特の韻を踏みます。

リズムだものね、音。


消失

自分が居ない。
相手に映る自分が居ない。
空をかすめている。

交わる場所はどこだ。
音は聞こえる。


自分は自分、どう思われようと関係ない

人から何を思われても気にしないというのは、違う領域で生きられてるからかもしれない。

 

人の気持ちが分からないというわけではないが、
他者の想いを読み取ろうとする時、どうしても自分の存在が消えてしまう。
自分の存在がどのような影響を他者に与えてるかの、視点が抜ける。

自分の他人に与える影響に関して、あまり関心が沸かない。
やりたいようにやって、それでいい。現状。

 
狭いのかね。
足りないのかね。


自己の存在の薄さ

自分自身の存在が消えている。
私は此処に居ない、居るのは何処か別の場所。

冷たい人に見られてたのは、幽霊に近い存在だからかも。
悲しさも寂しさも遠い。
 
自分自身を消して、色んな存在の立場でモノを観ることをしてる。
私の言葉は、たぶん異なる存在が発した言葉で、そこに私は居ない。

 

 

自分しかいない場だと、誰しもそういうふうに物事を捉らえもすると錯覚する。
しかし、現実に生きる人と触れれば、実は特異性であったのだろうか…と思いにふける。

自分の感情が遠い… 痛みも喜びも楽しさも、第三者として感じてる。
器が広いんじゃない、限り無く薄く、感情が遠い。大抵のものが素通りしてく。

 
だから、近く感情を発してる存在よりは、
淡々とそこにある樹や、地面、死の存在や過去を内包する土、
のイメージや感覚を受けやすいのかもしれない。

私の存在が、死者の記憶に混じって遠い場所から見下ろしている。
目の前のものを、すごく遠い目線で。
現実的な響きが薄いのは、存在が遠いから。

 

生きているのに其処に居ないというのは、
側にいる人にとって見れば

「一緒にいる意味あるの?」…他人の見てる領域と、遠い存在の領域が重なりあう場所。
夢の世界にほかならんのではないか。

私は夢に生きているようだ。