反省点は3つある。
一つは、相手の視点、存在を知り尽くそうとまで向き合わなかったこと。
一つは、自分の描きたいフィールドばかりに囚われ、肝心の登場人物の感覚を蔑ろにしたこと。
最後は、優しさの意味を履き違えたこと。
上の二つは、気づけばいい。
だが最後の一つは、致命的だ。
気を使うというニュアンスが、良くない結果をもたらすパターンだった。
それは偽りの優しさ、表層を取り繕うだけの、その場限りの嘘は、長続きしない。
いずれ取り返しが来る。
その反動は、その人自身が経験する精算だ。
気を使わない。
何時いかなるときも本音。本音で接することがお互いのためだ。
たとえぶつかることになろうとも、醜態を晒すことになろうとも、本音。
そこから、分かり合う日が来るであろう。
真の優しさは、本音からくる心遣い。
それこそが永遠を約束するであろう。
支配とは、それを服従させることではない。
支配とは、それを知ること。存在を隅々まで知り尽くそうとすること。
誰もが全てのことを知り尽くすことはできない。
だから、人は何人も支配されることがない。ただ一人、自分自身を除いては。
自分自身を知ること、自分自身を掌握することで、
自分自身を思うがままに動かせるようになる。
人もそう。その人を知り尽くそうとすればするほど、その人のことが視えるようになる。
自分から特定の何かを働きかけることで、想定する反応を得られたりする。
〜すれば
相手はこうするだろうか?
こう感じるだろうか?
支配とは知り尽くすこと。
存在を掌握すること。
何処に意識を向けてるかで
普段の行動が変わってしまう。
いつの間にか変わる。
何処に意識が向いてるのか?
それは、今の状況にそぐわうのか?
無理があるとき、意識が別の方向に飛びすぎてるかもしれない。
現実は、より良い方向に変化させたい。
気持ちが先行してこそ、変化の行動は起こせる。
ただし無理なく、段階を追ってこそ、スムーズに移行できる。
100%をいきなり方向転換でなくて。
1〜2割から少しずつ、少しずつ、土台を築きながら。
今の生活にも、意識の余力を残しながら。
少しずつ、少しずつ。
意識の配分を、コントロールしていく。
夢を見た。
木の実は、毎年豊作不作が在る、安定しない。
縄文の人、その土地の木の実が不作の時は、どうしてたのだろうか?
「木を植えないの? 自分たちが暮らしやすいように。色々な樹を植えないの?」
と尋ねた。
「私たちは自然のあるがままを受け止める。自分たちの都合のいいように改変しようなど、とんでもない。最悪、食べ物を求めて移動するしか無いだろう。」
と、当時の人達の考えを再現するかのように、夢のなかで言われた。
この時、想った。
もし先住民たちが、自然の言いなりでしかなくなったのなら、
彼らが北へと去ったのは、自然の意志だ。と。自然は、彼らの考え方を良しとしなかったのだ。
「人は、自らも自然の一部である」
この考え方が抜けているのだ。
自分たちの縄張りだけでも、自分たちと自然とその動物たちが暮らしやすいよう、色々な手助けをしてあげると、土地との繋がりは強まる。
好きな樹を植えたり、花を植えたり、その植物たちを素材に色々なアイテムを作ったり・・・
土地は、そこに棲む生き物たちの役に立ちたいと常に思ってる。
人は何のためにいる?? 自然のあるがままなど役割放棄もいいとこだ。
人は自らを活かすために。土地を活かすんだ。
植物たちを活かす、動物たちを活かす、微生物たちを活かす、人が活かす。
人は、自然を偉大だと畏れるあまり、自分たちの価値を蔑ろにしては行けなかったのだ。
自らも自然の一部として存在を敬えば、或いは、今も楽園は続いていたのではなかろうか。
あの書庫。10年少し前からのこと。
孤独の中で書いてたのね。
誰も来ない、誰もいない。
寂しい。
誰かを求めていながら
書庫に篭もりっきり。
孤独の中で、視えない虚空に手を伸ばしていた。
視えない虚空に、創造を描いていた。
「私はどうすればいいの?」
そんな気持ちで。
だから、読み返すと、少し切ない想いが蘇ってくる。
宵闇、星、一人。明かり。閉鎖的な空間で。
何もない、何もないがある。