一瞬の中に、永遠を観る

一記事だけじゃないんだよ。
全体を通して、始めて見えてくるものがあるんだ。

一瞬の中に、永遠を観るとはそういうことだと思う。
表層だけ見て、全てを理解した気になってはならない。
過去と現在、そして未来へと続く流れの中に、目の前の一瞬を捉えるんだ。

 

どの記事もそう。
どのブログもそう。
どの本も、作品も。。。

大切な人との交流も。


嘘偽りの世界の中で

嘘の世界は、最初から無かったも同じ。

想いを無視して築かれた、この世界。

世界の苦しみは、たくさんの想いが無碍に扱われてきた結果。

バラバラになろうとする状態を無理やり繋ぎ止めてるから、生まれた。

「嘘偽り」の真実の形を、今、この時に、見て取ることができる。

 

この歴史は、真実とは呼べないのか。

単なる事実がそこにあっただけで、数年後には記憶に忘れ去られる世界の形だ。

人の手を介在しない限り存続できず、多くの人たちに苦しみと悲劇をもたらしている。

この事実。嘘偽りの歴史。何もかも。

真実を見えなくさせられたからだ。

想いを見えなくさせられたからだ。

 

多くの人が、目を逸らされている世界が、今の時代だ。

嘘偽りの真実。存在しないことの証明が、因果応報によってなされるわけだ。

 

こんなにも訳の分からん舞台の物語は「今」にしか掛けないだろう。

嘘偽りの世界など、残す価値ないからな。

でも、たとえこの世界が忘れ去られたとしても、

この時代でしか生きられなかった存在たちの想いは、覚えていて欲しいんだ。

想いだけは、覚えていて欲しいんだ。この苦しみの中、それでも尚在り続けた、真実の想いだけは。

だから私は、彼らの想いを本に書き記しておきたいんだ。


過去は創るものじゃない、読み取るもの

巡る箱庭のお話。

どうして、自分の中で物語が掛けなかったのか。
最近、少し分かってきた気がする。

 
かつて、何もないところから「過去」のお話を創造しようとしていた。
それは間違いだと気づいた。過去に繋がる痕跡を「今」に視るべきなんだ。

 
 
真実は、いつも目の前にある。
その一瞬が、目の前にあるからこそ、
それは真実であり、実在してる証となる。

自分がこの目で観てきたこと、自分の心で感じたことが真実であり物語だ。

 
あの時代を生きた人たちが、あの状況で何を想い、何のために生きてきたのか。
その人の感覚を、今を生きる自分の感覚として受け止めるんだ。 
人間の本質はいつも変わらない。

過去実在したという記録から、想いを、想いを張り巡らせる。
なぜ、そうあらねばならなかったのか? その人の生き様を知るんだ。
真剣に読み取ろうとした時、その人の真実が、自分の追体験としてより鮮明に思い浮かぶ。

その瞬間、その人の真実は私の真実になる。

 

遺された全てのものに、ずっとずっと昔の、過去の真実から積み重なって宿っている。
そして今ここに存在している。存在こそが真実の証だ。
私たちがこの世に存在してること自体が、過去から今までの全てを証明している。
存在に、過去脈々と受け継がれる歴史が刻み込まれてるんだ。

全ての存在が過去の遺産として視えるようになった。
奥深くへ、少しずつ(時間軸を遡って)目覚めさせていけばいいんだ。


創造物を視るときの視点

創造物を視るときの視点

ギャラリー展。

うりゃー(。◕ ∀ ◕。)ノ

って、観てきた。

たくさんの作品たち。

色んな方法で、想いを書き綴ってる。

そんな作品たち。

作品って、想いを形にすることなんだね。

スキルなく、誰でも描ける。

芸術ってそういうものなんだ。って思わせる。

 

 

帰りにアンケートの裏紙にて絵を描きました。

うむ、立派に作品だ(‘ ‘*)

 

芸術は、誰でも生み出せるな…

 

 

 

さて。

あらゆる表現物を視るときの視点。

 

私は、それらの作品たちは、作品として形になってるが

自分たちがお部屋やギャラリーを形作る時、この作品たちは素材…って感じた。

これらの素材に込められた思いや存在の言葉を組み合わせて、自分の棲みたいお部屋にアレンジしていく。

自分のお部屋に意味を持たせるための、方向性を持たせるための、作品を飾ることが素材になるんだ。と感じた。

だから、その作品に込められた思いと、それらを見て自分が感じる感性とが、どう感じるか、しっかりと見定めていくんだって思った。

素敵なお部屋、ギャラリーにするために。作品に込められた想いを、もっと活用していくために。

 

 

 
 
一方で、例の彼は言っていた。

「一瞬の中に永遠を感じるかどうか、が問題だ。」

このことが、作品の50年後、100年後に現われる。

本当の価値は、そこで計られる。

そんなふうなことを、綴っていた。

例の彼っていうのは、関西に在住してるであろう
存在自体が神がかってるような…彼の言葉なんだが…

参照元 ⇒ http://81978.diarynote.jp/200805051914390000/
(彼とは一体どんな方なんだ(‘ ‘*)…?

 

人づてに聞いた彼の言葉は、何だかあの青い瓶のように感じた。

あの日、あの時、あの場所の、一瞬の世界。一粒の想い。

想い出の一粒
 

あの瓶の中で、それは今でも輝きを放っている。

人の手に触れること無く、ずっとありのままの姿で、一粒の想い出は熟成していく。

 

私は本当の価値がどのようなものかを、何となく確信した。


あなたを縛るもの

ほら(。0 _ 0。)ノ

「罪の意識」

 
これが、人を弱体化させるんだってさ。
あらゆる可能性を奪うんだ。

罪の意識が…

ホントは、何をやっても許されてる。
自然界の全生命に、人間とて例外じゃない。

「やったことは還る」という因果応報があるだけ。
 

何をやっても許される。
自分がやったことを、自分自身で受け止めさえできるならば。

そう、何をやっても許される。
なにもかも自由だ。

 

なぜ、人間だけが、自ら苦しみを生み出そうとするのか?
いちいち罪を感じるのはなぜ? めんどくさいよね。

 
これ最初はね、ホンの些細な事だった。

それがどんどんエスカレートしていった。
ついには、宗教が生まれ、国が生まれ、十戒が生まれ、法律が生まれた。
聖地が築かれ、境界線を敷かれ、この線を踏み越えてはいけない、が生まれた。

その線を踏み越えてはいけない。が、至る所に生まれた。
あれをしてはいけない、これをしてはいけない。
逆もしかり、あ〜しなければいけない。こうしなければいけない。

 
それが法律であり、道徳であり、掟であり、人間社会である。
その中で、人は集落を築いて、家単位で、厳重な戒めの中で生きた。
人間社会の中で正しくアランためにな…

子育ての苦悩の原因もここかな?

親が子どもに嘘を付かせていたんだね
 

もしも、理から外れれば、なぜかそれが罪だそうな。

 
人を縛るもの。

罪の意識?

 

知ってるよね。
最初からそんなもの存在しないことを。
その意識は、人間自身が生み出した苦しみの幻影に過ぎないことを。

 
だって、人の世の理から外れたら…
外れた時点で、そこに裁く人は誰もいなくなる。

目の前に在るのは自然界の因果応報さ。。。
 

今まで常識だと思っていた社会からの追放は、
確かに恐ろしいかもしれない。
 

だけども、社会全体が死に向かおうとしてる今。
そんな幻影に怯えるのは、もはや取るに足らなくなった。

 

人を縛るものは罪の意識だ。
だが、その罪と思わされてることが実は錯覚であり。
最初からそんなの無くして、人は最善の道を生きていける。

むしろ理から外れたところに、人間の真の生き方がある。

 
国も法律も十戒も誰かの教えも教育も、遠い場所のニュースさえも、
最初から、必要ない。存在の価値すら無い。

早く錯覚に気づいて…

 

石の囲みを飛び越えるくらい、簡単。
誰でもできる。

もし心理的に、飛び超える恐怖に抗えないとしても

子供たちが。
何も知らない子供たちが、

無邪気な笑顔でそれをぶち壊してくれる。
 
 

人間の作ったものを笑顔で壊せるのは
子供たち。それから自然の動物たち。

美しい光景だね。