始まりでもあり、終わりでもある日

巡る箱庭を作ったのが、2004年の9月29日。あれから10年。
遠い昔のことのようで、今でも当時のことを鮮明に思い出せる。

何もなくて、音だけの世界。
ずーっと浸っていた。湖の音。

ざぁー。ざぁー。

 
あれから10年。
色々な情報が集まって、それでも肝心なものを遺すには足りないでいる。
もっと注意深く観察する必要がある。

あそこはもうひとつの現実。
理想を叶えるためのパズル。

 


創作物語と音楽

音が身近になれば、こんなに世界は満ち溢れてるんだなって。
思うようになった最近です。

SAOの作者さんは情報量の格差って言ってた。
バーチャル世界と現実世界の差・・・

他は何も変わらない。

 
誰かの作った作品を見ると、その人のフィルターを通してみた世界観がより具体的に感じられて
おもしろいなって思います。

そういうのを沢山見たら、いろんな人の視点、フィルターを通してみた同一の世界に、様々な側面を感じることが出来る。
音楽もそう。音楽があることで、よりその雰囲気がリアルに再現される。

 
ここって音楽素材屋さんとして求められてるものが多いので。
私の作った曲が、その人の再現したい世界をお手伝いできると考えれば。
それはとっても嬉しいなって思ってしまうのでした。

サクラがあるから、曲は再現できる。今、試作中。
此処一週間中に数曲UPできればいいな〜。


バベルの塔の厄災

かの塔の存在。

それまで同一の言語を話していた人間たちが塔の建設に勤しんでいたが、建設を進める内にお互いの意思疎通がバラバラにされ、お互いに言葉が理解できなくなり、工事を続けることも出来なくなってしまった。そして塔の建設は放棄され、石工たちは各地に散っていった。

聖書によると、神の怒りが裁きをもたらしたのだという。
石や漆喰など自然そのものの産物を使わず、人間が自分たちの技術で作ったアスファルトやレンガを用い、傲慢にも神と同等か其れ以上の存在へと奢ろうとする人間の姿勢が、神の逆鱗に触れた。というような感じで書かれてたと思う。

別の解釈では、今にも自分の存在に手が届きそうな人間の団結力、結束力を神(?)は恐れ、人間の意思疎通をバラバラにしたという説もある。

実際に何が起こったのかは推測でしか語れないけれど、この時、間違いなく人間は退化してしまった。

 

塔の建設は時期的にノアの方舟以降の話とされ、たぶん大洪水とか天災に対抗するためというのもあったのかもしれない。そして、天にまで届きそうなほどの塔を作る技術というのは、おそらく、今よりも優れた文明であったと思う。

なぜなら、同一の言語で話していた人々の団結がもたらしたものだから。
今、人は個として独立している。インターネットに繋がっていないPCのようなもの。
かろうじて端末を通して情報共有はできてるが、所詮個人が生み出せるデータには限界がある。それでは到底、当時の人々の団結力には敵わないだろう。

同一の言語。

ネットの世界では、たぶん通信言語に相当する。
テレパシーのようなもの。

今のものさしでは測れないものがある。

今、同じ日本人同士だって普通に話してて誤解が多発してる。同じ言語を話してたってそうなんだから。なら完全な意思疎通を図るって、当時の彼らは一体どんなに言語を用いてたのだろう。

これは推測だけど、話す言葉ではなくて「聴く耳」の違いなのではないかと思う。
言葉は、そのものに意味を持つ。だけど、言葉自体の意味だけでは完全じゃない。

言葉が、誰からどの場面で、どのような意図で用いられるか。
この辺りが肝になってくる。

試しに同じ言葉を用いてその意味を考える

「ねぇあなた、あれ取ってきて」

例えるなら、これが共通の言語だ。
話す人、話す相手、その場所、目的、意図によって千差万別の意味になり得る・・・

塔の厄災が訪れる前、人々はこの言葉だけですべてを理解できたのだろう。
しかし、何かしら裁きが下った時に、たぶん脳の伝達信号の一部が切れた。

「あなた?(だれだよ)あれ(どれだよ)とってきて(とってき?)」

 

話し手の意図を汲むのじゃなく、おそらく言葉の持つ意味だけに囚われるようになってしまった。

 
解釈は色々あるだろうけど、たぶんこういうことなんじゃないかなって思う。

 

人間には集合意識というのがある。
あそこに登場した神なるものが、いったい何を思って人々を退化させたのかは謎だが。
核の部分に触れれば、あとは流れでその影響を伝染させることができるものね。

人間の集合意識。

 

バベルの塔は、なぜ建てられようとしたのか。
それがもたらしたモノは何か。
なぜそれが滅びたのか。

あの塔の存在は、ピラミッドの建設にも影響をもたらしたそうだ。
ピラミッドの役割と、それが生まれた理由を知れば、バベルの塔のことも少しは理解できるのだろう。

ホントにあれは人間の奢りの象徴なのか?
何かもっと大切な理由があったように思う。

塔といえば、タロットカードでは16番目。厄災や転落をもたらす性質を暗示している。
あの配置のせいで、未だにその印象は強いのだ。15番目の悪魔のカードに続く天国の階段。(崩壊を暗示してるのか?)
だがその次に齎される番号は確かに・・・

17:星、18:月と19:太陽、そして20:審判の時を経て、21:The Worldで締めくくられる。

神(宇宙)に繋がる道に「塔」があることは、何となく察知できるのかもしれない。

塔か・・・

塔を正しく理解できない時、それは厄をもたらすものになるのだろう。
現物の塔は、確かに短期間の繁栄と没落をもたらしている。

例の赤い何とかや、すかい何とかのように

現物の塔は、様々な想念から注目を浴びる。
しかし、地盤が脆ければ簡単に崩壊する。上や高みに囚われて足元を疎かにしてはいけないという暗示。

下のものは塔をみる。目立つから。どんな存在も塔を見る。
それこそ、地球全体が塔の存在を感知すると思う。いつぞやの神みたいに。

少しの風で揺れるアンテナ・
雷が落ちる避雷針。鳥が止まる場所。
多くの天の情報が、その一点に向かって齎される。

しかし塔の存在が足元を見なければ、情報戦で負けるのだ。
知らないうちに、地面の足元を掬われるから。

塔の存在は上を見るだけでは成立しない・・・
高さだけが重要なのではない。
それを支える地盤が必要。

だからピラミッドはあの形。
あの形が理想なんだ。

天の情報と地の情報が両方繋がることで、次の番号に進むことが出来そうな気配を思う。

バベルの塔の風刺画も、よく見たら「高い塔」というよりは円すいになっている。
今みたいに上だけ見て変なビルの形になってない。やっぱり昔の人は次元がひとつ違う。


書が書き記したもの

人の一生を物語形式にし、それがリレー形式で代々繰り返される様が記されている。
感情の表現はほとんと書かれておらず、「〜が〜をした」という事実のみ淡々と描かれる。

親から子に、中心となる登場人物の舞台が受け継がれても
彼らの物語は、ほとんどが同じことの繰り返しだった。

 
男が、女を愛する。子を為す。兄弟が生まれる。
兄弟同士、あるいは複数の妾どうしでいざこざが生まれる。
それは、代々続く子孫の末裔にまで響く。

主となる存在はひとつだ。
誰が、その寵愛を一番に得るか。

そういった争いが次々起こる。

 
始まりは兄弟で。子孫の間で。
それが氏族の争いへ。

ひとたび、月の洪水によりリセット。

 
そしてまた兄弟同士、側室・愛人同士で争いが生まれる。
代が続くほどに、系譜は複雑化して、人間関係が読みづらくなる。

だけど本質は変わらない。
主となる登場人物たちは主の寵愛を得ようと、その恵みを一心に享受しようと、善き行いをしようとどの時代でもひたむきに生きていた。にも関わらず、なぜ其の周りには争いが絶えなかったのか。

 
限りある恵みを、いつまでも皆で奪い合っているかのような世界だった。
そのような舞台を描くために、書が編集なされていたとも言える。

 
 
主はしきりに告げた

「〜せよ。〜すれば、〜であろう。」

大まかにこの言いつけを守れば、当人たちにとって善き事が訪れる設定。
そうやって登場人物は、神託通りに動かされている。そして確かに良き結果が訪れる。

ただし全体で見れば、その記された世界には富の格差が生まれ、聖なるものと卑しいものと常々分断されるようになっていった。

 
物語の中心人物となる本人にとっては、なるほど。確かに恵みがもたらされているが。
長期的に見ると、争いの種は一向に増えるばかりだ。

 

不思議だ。

信者として、信心深いことは誠に善きことである。
己の欲を悪とし、自身に責務を課して「〜なければならない」と自らの生き方を戒めるのも。
そうやって悪の誘惑を退け、清く美しく生きようとする姿勢は立派である。

だが往々にして、そういった頑なな姿勢が、自分の意志、やりたいことを押さえつけ、心の葛藤を生み出してしまうことがある。2つの人格、もともと己自身が持っていたものと、教義や神託によってもたらされたもの。

己自身の心の内で、それらが天使と悪魔という2つの存在に型どられ、お互いが自らの半身を傷つけあう。
時折このように、自らに苦しみをもたらしてしまう。

 
 
しかもそれだけではない。
彼らは、そういった自らの生き方を他者に矯正し続ける風潮に合った。

「〜しなければならない。〜すれば、〜となるであろう」

 
といった、自らのみに託された神託を、
まるでその教えが唯一絶対のモノであるかのように
自分の家族、子孫、士族、さらには全く関係のない土地のものにまで矯正させた。

 
其の結果、どうなっていったか。
巻末を読めば、明らかだ。

 

主の意向に逆らうものは罰が下る。の意図。

個人の範疇であれ、
兄弟の範疇であれ、
氏族の範疇であれ、
そして自らの収める国の範疇であれ、

同族(自分)殺しが生まれてしまうのは、
こういった意図が引かれていたからに他ならない。

主から見える視点でのみ善悪を測り
そのものさしで世界の舵取りを行ったことで他者の意志は束縛され
主の御心のために動かされていった。

統治国家は、確実に書がもたらしたものの一つ。まさにあんな形。
頂点は操り人形、主の思うままに。
そして彼らの作った神託に巻き込まれる多くの者達。

意思を抑圧させ、思い通りに動く人形国家が出来るまでの設計図が、ここに記された。
人は個々の輝きを持つが、集団になると途端にその光を見失う。あれは盲信の為せる業か?
 

まさに負の連鎖を、その物語に見ることが出来る。
主が望むままに”彷徨える子羊たち”へと書の教えを説き、
広く、その結界を築いていったのだと。

 

 

根本的に、おかしな設定が最初の木の存在なのだけど。
最初の木に成っていたアレは、なぜそこに存在したのだろう?
決して触れてならないなら、最初から生み出す必要はなかっただろうに。

生命の木と、対を為すあの木。
何のための存在だったのか。とても気になる。


書は明確な意志のもとに書かれている

書は、明確な意志のもとに書かれている。
中核を為すのは、内容とか書かれてる一字一句とかそれ以前の

「その書を書いた目的」

 

本を読み解くにあたって一番重要なのが、
なぜその本が書き記されたかにフォーカスを宛てることだと思う。

単に事実の側面を書くだけでは、学校で習う教科書の類と同じで何の魅力もない。
そしてそういった文書録は、いつの間にか人々から忘れ去られる。最初から存在しなかったかのように。

 

今、もっとも長く人々に読まれてる本の一つに聖書がある。
あれは、明確な意志のもとに書かれているのだと感じます。

神の存在を世に広めるためのモノ?
人々に善なる知識をもたらすモノ?
それとも、もっと別な何かを意図して書かれたもの?

一つ一つが、それぞれの視点で解読できる側面の一つ。

 
ホントは原文で読むべきものだと思うが…
あれがなぜ、永らく人々に読まれてくるほどのモノとなり得たのか。

記された書には、明確な目的意志があったのだ。と後々感じます。

 

日本語訳では、その意図が完璧に再現されていないとある。
もっと原文、あれ自体に暗号が隠されてるとの報告もある。

 
ホンの内容は、そんなに重要な部分でないと感じたのでした。
書かれてある言葉一字一句より、事実として受け止めるより、
どうしてなぜ?の部分のほうが強く残る。

一節一節の話を通してみた時、個人的な視点での乾燥です。

 

本は、それ自体が宇宙を暗示しているように思う。
独自の世界観を構築して、其の中で様々な登場人物が、様々な想いで動かされている。
自然や星々に記された法則は、それ自体が完璧な宇宙を構築してると思う。
 
そういう本が、人々の記憶に残り続ける。

 

だけど、やや見識が甘い著者の本は、構築する宇宙に矛盾が生じている。
そうなると読者は「真実味がない」と心の表面的な部分でしか読むことが出来ない。
中身を記憶しても、矛盾が存在ごと消失させてしまうから。だから直ぐに忘れ去る。

 

其の点、あの本は違うんです。
どこか違和感を感じるのに、長い間人々に読まれ続けてきた。

その意味するところは何なのか。
書を書き記したものの意図が、パズルの中に見いだせるのかもしれない。

 

この世の謎。