個は偉大、集団の愚かさは消滅する

当たり前の話です(‘ ‘*)

自分一人、個として生きる最低限の環境をイメージしてみたら、分かる。

最低限、食べ物が実り、眠る場所を確保する。
一区画の土地、作物の実り、木の実、野草。雨水。
身近なもので賄えば、あとは十分な暮らしが出来るでしょう。

 
他の何も必要とせずとも生きていける。
それを別の記事に書いてきました。

http://goldenflower.jp/blog/2423

 

その光景から、誰が明日生きるためのお金を必要とし、老後のお金を心配し
子どもたちの未来を心配し、今必要とする以上に稼ぐ焦燥感に迫られるだろうか…

と、告げます。

 

個として動けば、そんな愚かな状況は招かない。
でも、人は集団になると簡単に愚か者となる

集団が愚かというのも、構成された社会体制の中心が愚か者だから、
そこを軸とした集団に属せば、そうならざるをえない訳ですね。
常識とか法律とか正義感って、簡単に人を騙せますからね(‘ ‘*)

 
よくここまで弄り倒せたなって思います。
灰色の世界。辺り舞う銀色。
通常ではありえない光景を、今目の前にしてる。

 

都会の光景をよくよく思い返してみると、近くに食べ物は実らない!
遠くから物資を運んでこないと生きていけない。
でも、人は食べ物なくても仕事を求めて集まって来る。

そういう場所に仕事があるからといって、
ごちゃごちゃした密集地帯で平気で暮らすし。それ生きるために必要?

 
どうして、周りは道路だらけなんだろう。
よく分からない既成品のオンパレードなんだろう。
工場? コンビニ、チェーン店、高級ブランド?

そういうところがなぜ物価の中心になるのだろう。
いや、お金はそういうトコまわっていいのだけれど。

最低限生きていくために、地に足のつかない所でお金を稼がなければいけないのは、
そういうふうにしてしまった今の社会は。どこか歪だ。

歪みが歪みを生み、生きづらい社会体制、搾取の横行がはびこっていた。

 
 
この記憶は、後の世にどう語り継がれるだろうか。
忘れてイイ…とは言えない。でも、こんな記憶に再現する価値はない。
物語性はあるかもしれない。こんな大変なことがあったって。

そして、愚かにも具の頂点を極めた存在は、手厚い因果応報を受けて崩れ去ってしまった。

残された人々は、以前にも増して力強い生命の力を思い出し
かつてのその時以上に、光溢れる大地となった。

こんな結末でよろしいのかしら?(‘ ‘*)

 

確かに、ここまで愚かな場面はそうそうお目にかかれないだろう。
この状況から復興するには、かなり頭をつかう。知恵も借りなければならない。
ここまでグチャグチャにされた地盤を修復できる程の知恵を集められたら、

それはかつて以上のモノを実現する足がかりにもなるかもしれない。

 

発酵力がそうだ。
今話題の放射能を乗り切るには、コレが必要不可欠だ。

そういえば、放射能が浄化されるには何十万年もの歳月が必要だとか。
言ってたな。

。。。あれをリセットする手立ては、もう発見されてる。
原発屋には扱いきれない技術だけども… 相反するもの。

たぶん、科学者たちは生命の力や影響力を過小評価しすぎた。
だから抗生物質で、どうあっても対処できない細菌が出来上がってしまうし
遺伝子組み換えの植物は、自らの種を殺すようになる。

自然の摂理とは、かくも芸術なのか(‘ ‘*)

 
自然は集団というより、個の生命に近いな。と感じた。
其処に根付く一つ一つの命が、臓器だったり細胞だったり血液だったりするのだ。
全てが必要とされて、一つの自然の形をなしている。

小手先の科学技術では、とうてい太刀打ち出来ないのだ。

 
科学は、それ自体は愚かじゃないけど。
集団で常識として認知されてる「科学主義」は、愚かなり。

一つの生命から切り離した臓器は、もうその役割を保てない。
その視点では、永遠に繋がりを理解することは出来ないのだ。

 
分断された社会集団は、このまま散り散りに散ってしまう。
代わりに、本来のあるべき姿が戻ってくる。

集団は機能を失い、個の偉大さが目覚める。


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