自然界の音と純正律の考察

風の音や虫の声、大地の音の響き。鳥やカエル。
時間帯や気候で、季節で、色々な音が鳴ってる。

自然に溶け込んだ音色。
それぞれが呼応しあって、耳に優しい音色。

原初の楽器は、彼らと共に語り合うために、自然の音を模して作られた、という成り立ちを感じる。

woodwind

木の笛。風の音を模したもの。
ひゅ~、ひゅ~ん。

音階は、風の強さに応じて上がったり下がったりする。

動物たちの鳴き声も、感情に似た響きを、意志の疎通を、音階でも聞いて感じ取ることができる。

その旋律の変化で、大地や他の生き物からも、共鳴や呼応する音階が自然と発せられて、その土地の、その瞬間の、ハーモニーを奏でる音律が浮かび上がってくる。

それらは絶えず変化する。
つかみ所のないような、けれど共鳴し合って他の全てと一体となったような音の集合体。

人間が、そこで音を発すると、彼らは応えてくれる。
その人自身のもつリズム感や音律に合わせて、一緒に歌ってくれる。

このハーモニーを形にしたいと願うこともある。
が、音の流れを留め続けることは不可能、次々に移り変わっていくから。

流れるままに、感じるままに。

純正律について。

これは調和する方へと働く自然界の音律を、形にしようとする試みから産まれたものだと、1から音階を設定してたら思った。

調和する音階の並びを周波数で表したもの。あくまで比率のものさし、それ以上の意味はない。

このとき色んな数字で割り切れる数字を基準に使うと、調和する音階の配列を割り出しやすい。

そこで432という基準の数字を拾い上げる。

2*4*8*16*32*~~
3*6*12*24*48*~~

ここで挙げた数字のいずれでも割り切ることができる数が432

(倍音成分の一致するように)これらの共通する数字を掛け合わせて音階を周波数成分に表すと、純正律の並びが浮かび上がる。

256 (例…ド)
272 (例…ド♯)
288
304
320
336
360
384
408
432(例…ラ
456
480
512(例…高いド)

その土地や時間の間隔でHzが変わるので、あくまでも比率。

1オクターブ上がると、周波数は2倍になるのでこのように。
前半部分の並びは16ずつ
後半分の並びは24ずつ周波数が増加しているのが分かる。

もう1オクターブ分並べたり倍音成分まで見ると色々見えてくるけど、数字だけ並べでもあんまり意味ないので割愛。

数字は動かないから、目安の域を超えない。

自然界の音は生きているものたちだから、それぞれがタイミングを合わせようと言う意識が働く。

決定的な違いを、意識しつつ。
ひとまず自然律に近づけるような音階の調整に入ってみようと思います。


石碑のことば

ぐるんぐるん、周りが大草原。
辺り一面を見渡せる小高い丘に、古代文字の刻まれたいくつもの岩たちが、何らかの意味を成して連なってる。

ここに来た時、草原に波のようなうねりを見た。畝はこう立てれば良いんだ。水や風が蛇行して行ったり来たりしながら進んでいく紋様がみえた。

溶岩の流れや、水の流れが、長年かけて描いた芸術なのかもしれない。

平地では、今いる地点が点のようにしか認識できないけれど、少し高いところに行けば麓全体が見渡せる。全体の中の、その地点の特徴、どのような流れの中に位置して、どういった役割を担ってるかが、何となく。小高い丘は周囲を見渡せる場所だった。

目の前の存在、延長線上の姿が遠くに映し出されて見えた。

流れが見えてくると、その先はどうなっていくのかも、想像の先に映し出されてくるから。

ここは一点にして時空間を周囲全体に見渡せる場所。中心にピラミッドのように天に続く光の道が編まれてる。

中心の石を巡ると、文字が至るところに刻まれてて、一周する毎に物語が連なって詠まれていく。

歴史を感じる…

という難しい話をすぱーんと横においといて(。◕ ∀ ◕。)ノ

石の上は気持ちよかったです。
虫たちの声、鳥たち、風の映える音、石に響く、お日様の光に温められた石は暖かく、うとうと。

いつまでもここに居れる。
全部が開けてるから、心地よいのです。

夢の中で、石たちの言葉を聞くのかな。
感覚が、心地よいの感覚が、恩恵なのだと気づくでした。

あれこれ考えるのが勿体無かった。
この場所は心地よいのです。

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植物の音階

葉っぱ。
葉っぱの形。
葉脈
幹の形
主枝と横枝。
そして根、音。

一つの植物は、すべての部位が一定の紋様(音)で共鳴し合い、力強い生命力を形作ってる。

楽器に置き換えてみる。
太陽の光や風、水が「息」だとすれば、吹き込まれた息は葉っぱの葉脈の形に響く。笛みたいに、微細に、けれども大小様々な領域で鳴り響く。

光合成で得た栄養は、葉っぱの音を宿してる。その音と共鳴するように根に響き、その音と共鳴するように成長する。

私たちは収穫した実や葉っぱを食べて生きてる、明日はその音のエネルギーを宿すことになる。

日本人が米のDNAに近いのは、体質に米が合ってたからじゃない、私たちが米の音に染まったのが正確。

稲の葉脈は真っ直ぐに並行で、一本線は交わらず。その為、水田栽培などは、稲を真っ直ぐ何列も植えている。その形だと稲の音に共鳴しやすい。

麦もとうもろこしもそうだと思う。

しかし、胡瓜や南瓜はかなり違う。
大きなウチワのような葉っぱを付けた茎がツル状に伸びる。

稲が主旋律の弦だとすれば、これはハープとか曲線の音で、アルペジオみたいなふうに見える。ウリ科の特徴。
背の高い稲やとうもろこしの茎に絡ませながら成長させると良い。

大豆やエンドウなどの豆類は、鞘の中にできる。葉っぱも丸くて可愛い。ハーモニカとか笛みたいに。コードを押さえる指使い。
平行に植えたイネ科の合間に、コードを抑えるように植える。

イネ科+ウリ科+マメ科

コンパニオンプランツとしての相性も優れる。
オーケストラ編成一部のプリセット完結。

植え方次第で畑の畝が楽譜となる。


死の概念に触れる

死後の概念に触れる

おじいちゃんの夢からもう一つ、死後の世界がどういうものかを感じ取った。
前記事→おじいちゃんの夢の園

人によって捉え方は様々だと思うのだけど、共通してる部分に時間の概念がないことを把握。

つまりは一瞬であり永遠でもある世界だ。
どういう事かと云うと、過程をすっ飛ばして、一瞬で完成形の世界に到達してしまうというもの。

調和の形、星は回るよ、くるくる。
種は芽を出し、成長して、実を成す、枯れて、でもそこから種が零れて、また芽が出ての。
木の場合は一瞬で大きくなり、朽ちてもまた新しい芽が出て、ずっと繰り返すうちに、その光景には一定のサイクルが出来上がる。

水、水は絶えず循環する。風も…

彼は歩む。
そのスピードは心臓の鼓動のよう。
早めれば移り変わりも早まり、ゆっくりになれば変化も緩やかに。サイクルの終着点は、変化しながら延々と続く世界となる。

生まれ変わる命は、若い時もあれば老いた時もあり、男の時もあれば女の時もある。なるほど世界の主は一なるものだが、その姿は一定ではない。

神の存在もそうなのだろうか?

ふむ、話を戻すか。

その人の、生きた間に構築した世界の延長が、死後に存在するんだ。成そうとした生き様の完成形、時空を超えて延々と続いている。

おじいちゃんはおじいちゃんになってから畑を耕し始めた。
そのお陰で小さな私は、食べ物がどこから来て、なぜ生きていられてるのかを知った。

おじいちゃんは、きっと見せたかったのだと思う。ただ生きてる間にできる園には限界があった。
けれど、先の意識に触れることはできる。日記帳。記憶。触れた先に、永遠の時を夢見る。
このまま彼がずっと生きて耕した先に何があるのかを。私は見たのだと思う。

夢が目標になる限り、彼の想いは受け継がれ、私たちにとって現実となる。
何百年、何千年と続いていく世界。もしその場所が素晴らしい光景ならば、天国に感じられるだろう。

自分が生きた延長線上にあるもの。
このまま永遠の時を生きると仮定した場合、日々の生活の中で自分は何を消費し、何を創り出しているのか…周りにどんな影響を与え続けて最終的にどう変わっていくのか?
自分の意志は、どこに向かっているのか…
何のために生きてるのか…

実際に私たちが生きて目にしてる光景とは、終着点(永遠の世界)に到達する過程でしかない。

過程は目標に向かって、次第に現実味を帯びてくる。
その先が天国か地獄かは、自分の感性が知っている。

日常を積み重ねた永遠の先に人生の答えがある。

望ましい世界に向かっているなら◎
望まない結果にしかたどり着かない場合、できるところから別の道を探らないといけない。

生きている間にしか、終着点は変えられない。

もしも虚無の世界があるとすれば、永遠の時を経て、ただ朽ちていくだけの世界。。

でも、ただ一つだけでもいい。
永遠性を宿す何かの種を蒔くことができたなら、世界の在り方は随分と変わってくるだろうと想う。


月明かり、小さな音

真っ暗山道、帰り道を往く途中。
空を見上げると一面が星空だった。
都会では見えなかった様々な星が、優しく光ってた。

そもそも周りに電灯がないから。
月明かりがとても綺麗に見える。
 
月明かり
 
灯りが無いほうがよく視えるんだ。
自転車のライトをつけると、その範囲はとても眩しく照らされる。
が、ライトを消すと、その暗さに目が慣れて、道のずっと遠くまでくっきり見えるって。

そんな不思議な体験をしてから。
ああ、見えるか見えないかは、光の落差なんだって思った。
山道の暗さには、星やお月さまの優しい明かりで十分なんだって思った。

 
これまで都会でまばゆく輝いてた灯りは
そういった包み込むような夜空の明かりを見えづらくしてたんだなって。

 

そして、あたりには静寂があった。
すると今度は、些細で小さな音がよく聞こえる。
何かの気配か、木の葉のさざめく音が。

そして、たまに通る自動車の音が大きい。
何もないから、色々なものがよく聞こえ、視えるようになってた。

 
小さな変化、些細な気配、冷たさの中の温もり。
風のゆらぎ、たまに聞こえる人工物の音。

静寂に溶けて、森全体の一部として
その光、それらの音を聞いてるみたいだった。

 
この感覚は、実際に体験してみたら。誰もがそう感じると思う。
何もない暗闇に溶けていく。この話をすると、怖くないの?と知人は口にしていた。

ただ当初の、目の前が真っ暗で何も見えない不安は、その場所に慣れると色々なことが視えるようになって、視界が慣れて、むしろむしろ暗闇が居心地良く感じられるようになっていく。

この感覚。

 

逆に都会に帰ってきた時、あまりの賑やかさに驚いてしまった。
今まで暮らしてた場所が、まるで違う世界のように感じてしまった。

どちらの夜が現実で、どちらの夜が泡沫となるのか。
今は自分で好きな方を、好きな時に、切り替えていられる。

落差が、すごい。