なぜ今「テキスト音楽サクラ」なのか

昔、かなり昔。8年前。まだ曲を作り始めて2年位の頃。
とある楽曲投稿サイト経由なのか、こういう質問を訪問者からいただきました。

「MIDIでここまで作れるんですか?」
「使ってるの内蔵音源なんですか?」

 
そのときってMP3投稿が主流で、高品質な音源、作曲ソフトとかいろいろ推奨されてた時代。しかし当時の自分は未だにデフォルト音源で、無料のシーケンサー(サクラMML)で作ってた。いろいろ珍しいかったんでしょうね。

その方は、かなり熱心に質問されてきて。
「〜いろいろ音源弄ってみたら」とか、「DAWが、ミックスが・・・」って、
当時の自分ではよく分からないこと仰ってて、逆にこっちが学ばせて頂いてたんですが。

「なんで無料でそこまで出来るの?」

 
ていうのが、その人の質問の核心部分だったみたい。
当時は、答えられなかった。なぜなら、作曲ソフトとか音源がどういったものか体感出来なかったから。

 

今、ひととおり体験してみて思うのが、音の再現度よりは、まず音の自由度かなって。
音を並べるときの軽さ。身軽さ。旋律が自由に描ける身軽さ。それが曲の創造性に現れて、囚われず、流れるような音でいろんなかたちで表現出来るよって。

 
高機能な作曲ソフトって立ち上がりとか動作が重いんだ。
高品質の音源扱って、その音データを呼び出しながら譜面を制御して、鳴らす。
一挙一挙の挙動が、音そのものを取り扱うような動作が、とても重い。

その重みが、たぶん直打ちする人からすれば、曲に現れてしまうのだと思う。
どうしてもベターって、単調な音しか出せなくなってしまう。重いから。自由に動かしづらい。

これ、リアルタイムに演奏して打ち込む人なら大丈夫だと思うのだけど、
私の場合はね…楽器ないから。。。

 
一方で、MMLの場合は非常に軽い、とても軽い、めちゃくちゃ軽い!
メモ帳を開く感覚で開けて、文字を書くのと同じように音符を並べることが出来る。
むしろ、文字が音符の代わりになってる。細かな音量の調整も前もってプログラミングできる。

音の長さ、音符、音の強弱、ゲート、音量、エクスプレッション、モデラート。
一瞬で描ける。あらかじめその形を指定できる。あとで一括で変えられる。偉い!!!

 
一つ一つの音を並べて調整するのが、Logicだと細かく出来る代わりに100くらいのエネルギーを消費するのを、MMLだと10程度の労力で十二分に再現できる。この軽さが、旋律に自由度と音の再現性を格段に向上させている。けっして、有料ソフトで高機能だから優れている。というわけではないというのを、身を持って学んだのでした。

きっとそういうことですよね、あの質問の答えも。⇒適材適所。

 

ギアチェンジ。の感覚を思いました。
最初から本番用でがちがちのシステムでやるのじゃない。
線画用のシンプルな動作で、譜面をまず作成した後

あとで、音の高音質化、優秀なエフェクトを加えたり、ミキシングしたり、既存の音ファイルを取り込んだり。これらは分けた方がエネルギー効率がいい。

 

・・・

もちろん。私のやり方の場合ですけど・・・
いきなり音ファイルずらって並べてミックスとか、すごいよな〜。
そういうの出来るだったら、Logic一本でもいいよな〜。
たぶん、好みの問題でそういうのは避けてるのかもしれない。

どうしても音符を並べるのが=作曲だと思い込んでるフシがある。
音ファイルそのものをつなぎ合わせるのは、あとで応用効かないから好きじゃないのかも?

 
MIDIがあると、自分の場合安心で、イメージの再現性が半端なく優れるのです。軽いから。
最悪、大元のMMLファイルだけバックアップしておけば1曲わずか数十kbの容量しか食わないから。
それがあれば、再現はLogicを通していつでも出来る。
ミックスの方向性も、大元のMMLファイルを残しておけば失敗したって問題ない。

この軽さが、曲の自由度と再現性を向上させていた。。。

 

過去の曲。2004年から2008年まではサクラMMLでした。この頃の曲は今でも気に入っている。
しかして、2009年から2014年までLogic一本でやってました〜。音質は向上したけど、いまいち音に魅力がない?というのは、こういうことだったのかもしれませーん。しかも更新頻度が滞った。

最初からLogicだけ触ってても上手く曲を作れなかっただろう。

 

私が曲として音楽データを残せるようになったのは、シンプルなサクラMMLのおかげ。それが今、やっと実感出来ました。サクラMML復活させて、また以前の更新ペースに戻すのを決意する。

とりあえずMac用のサクラMMLが開発されるまで、WindowsXPを引っ張り出してくるのであった。


ひさびさのサイト巡回、創作サイト

創作サイトさん巡りしてました。
なつかしいサイトの作り、更新、止まってたり、ほそぼそ続いてたり。
皆さん共通してるのが、自分の世界観を持ってるってこと。

個人でデザインがいろいろ違って、いろんな魅せ方があって、見てて興味を惹きます。
で、久々に自分の創作コンテンツの方も見なおしてみた。

 

そいや「巡る箱庭」作ってから10周年なんですよね。
あれ元々は、自分のオリジナル作品のプロローグ用に作ったものでした。

「巡る箱庭」

 
物語をちょこちょこ更新したり、新しい話を追加したり。
10年かぁ。当時から作品のコンセプトは変わってない。

10年の歳月で、いろいろ見えるようになったものが付記されて
逆に10年の歳月で見失ったものは、あの中にもたくさん見れる。
見たら、思い出した。

 
ずっと創作から手を離れてたので、懐かしくなりました。
いろいろな光のなかで、自分のエッセンスがはっきりして見れるようになる。

 
10年。
10年で、お話も8〜9話くらい? ゆったり。

かなり手入れしてるのですけどね。
順番を入れ替えたり、この話はもっと後かな?で、取り下げたのもある。
主に修正修正で。何か新しい見解が入る度に、人知れず手入れをしている。
見える範囲までしか掛けないから、自分の視界を広げていくしか無い。

一生までに完成形持っていけるかな?
下書きをがっつり書きためつつ、もうちょい寝かせてみます。


文字で音楽を作るソフト「テキスト音楽サクラ」

サクラMMLからLogicに転向して早5年。
作曲以外のことで夢中になってた時期でもあり

料理に没頭したり、生活に関連する姉妹サイトの方を作りこんでたり。
微妙に創作活動が疎かになっておりました。

その間もWebプログラミング系のなんちゃらを色々やってたので
ほんの少し、ソースコードの内部事情を学ぶ機会も得てたり。

文字が、ウェブサイトを構築する。文字が、外観を設計する。文字が内容を作る。
これが、ホームページ。HTMLとCSS言語、ただの文字の組み合わせで、作品ができる。

 
ずーーーーっと、こういったことをやってきました。
ので、一つデザインを起こすにしても、メモ帳ひとつあればよかったのです。
記述スタイルもどんどんシンプルになって、無駄なソースも洗練されていった。

文字だから、キーボード一つで気軽に変更できるし、コピー&ペーストも思いのまま。
しかも、別の場所から特定の命令文「キーワード」も難なく引っ張ってこれる。
そして最も優れた特徴として、軽い! 動作が軽い! めちゃくちゃ軽い!
保存も容量を食わないし、手軽に編集できてしまう。スゴイ。

 
文字が自在に扱えるなら、どんな高機能なビジュアルエディタより、断然メモ帳なのですよ。そういえば生活スタイルだって、シンプルライフは動きやすくていい感じだ。
(こんな感じで ⇒ 必要最小限の持ち物で暮らす

 

こういったことが、自分にとって作曲ソフトにも言えるのでした。
Logic,すごく高機能で音もよく、ミックスからアレンジからオーケストラ編成から何でもできるが
音を鳴らす一手一手が重く、非常に無駄なエネルギーを費やしてました。

自由度が思うように出せないというのは致命的で
流れるような旋律が描きづらくなり、それを書くのにすごく手間取ったり。
細かなベロシティの調節が面倒だったり。

これが、以前使ってたサクラだと、文字一つ。タイミングも、数字1つで簡単OK。
なんて軽いのでしょう、音色変更とか命令とか定義とか自在に掛けるんですよ。

音色の拡張性のなさと表現力の少なさが欠点ですが。下絵にそんなものは要らん。
むしろそれ抜きで過去は曲を書いた。十分な機能を果たしている。表現の拡張性は他で補えばいい。
 

とにかく、何かを書き始めるにとって、気軽にアイデアを文字で音にできるサクラは、素晴らしいのです。
テキスト音楽サクラ
ほんとにメモ帳みたい。
これで音楽が作れるってスゴイじゃないですか〜(‘ ‘*)

公式サイト ⇒ テキスト音楽サクラ

 
残念なのはMac OSに対応してないことなんだが…
上記の画像は、むりくりMacアプリで動作させてる。
なので文字の感覚がオカシイし動作にも不具合が起こる。
Winじゃないと使いづらい…あうー。

 
はよー、Macでサクラ実現しないだろうか…と切に願うのであった。

 

とりあえず、過去のMMLファイルを一旦整理しようと思います。
昔のソースコードより、今のほうが綺麗にかけるから。整理して。
MMLからMIDIの楽譜に変換したものを、Logicに読み込ませて最終仕上げという工程に行こうと思う。

まずはソースコードを見やすくして、自分の描くMMLのスタイルを洗練させていこう。
トラックごとに、そして各場面ごとに区切り、横一列で音のなるタイミングがわかりやすくなるようにする見込み。

次に、記述スタイルのテンプレート化。
決まったパターンで描けば、後で見た時にまとめて編集しやすい。

 
過去の分は、どれもバラバラの書き方だったから、後で見て???
これは頂けない… 整理必須。そして、MIDIに変換した時、Logicに読み込ませやすくする工夫も必要。
音色の互換性とか、コントロールチェンジのいじり安さとか、その辺をLogicとMML側で調整する必要がある。

やってみよう。


火星の夢

昼なのに夜空をみているようだった。
銀河系を連ねる星たちが、上空で次々に回っている。

北極星を中心に星が回るように。
だが、こちらは東から昇り、西に沈む。

星が回転する度、その色は赤、橙、緑、青と様々な色のパターンに変化し
また、空の色も全くの闇色ではなく、群青色、淡く輝く青色と紫色、漆黒の煌きが散りばめられていた。

昼なのに、その星々が闇色の中でその色とりどりの輝きを放つとは。
あの銀河系を連ねる星。火星? の影響?

 
私たちは避難所に来ている。
世界の終わりの天変地異に備えて。

そしてこの日、空が闇に染まり、星々が次々とその輝きを解き放つのを見た。
火星の銀河帯が、ぐるぐると空を巡る、その様子を見届けた後、月が割れ、豪雨が降り注いだ。

あっという間に低地は水浸し。
その勢いは留まることを知らない。
はやくもっと高いところへ。

でも今は空をとぶことができるから問題はない。
荷物をおいて出来る限り遠くへ>と避難指示が出る。

問題ない。荷物(記録道具)をもって空を駆け、次の場所へ移動しよう。


書が書き記したもの

人の一生を物語形式にし、それがリレー形式で代々繰り返される様が記されている。
感情の表現はほとんと書かれておらず、「〜が〜をした」という事実のみ淡々と描かれる。

親から子に、中心となる登場人物の舞台が受け継がれても
彼らの物語は、ほとんどが同じことの繰り返しだった。

 
男が、女を愛する。子を為す。兄弟が生まれる。
兄弟同士、あるいは複数の妾どうしでいざこざが生まれる。
それは、代々続く子孫の末裔にまで響く。

主となる存在はひとつだ。
誰が、その寵愛を一番に得るか。

そういった争いが次々起こる。

 
始まりは兄弟で。子孫の間で。
それが氏族の争いへ。

ひとたび、月の洪水によりリセット。

 
そしてまた兄弟同士、側室・愛人同士で争いが生まれる。
代が続くほどに、系譜は複雑化して、人間関係が読みづらくなる。

だけど本質は変わらない。
主となる登場人物たちは主の寵愛を得ようと、その恵みを一心に享受しようと、善き行いをしようとどの時代でもひたむきに生きていた。にも関わらず、なぜ其の周りには争いが絶えなかったのか。

 
限りある恵みを、いつまでも皆で奪い合っているかのような世界だった。
そのような舞台を描くために、書が編集なされていたとも言える。

 
 
主はしきりに告げた

「〜せよ。〜すれば、〜であろう。」

大まかにこの言いつけを守れば、当人たちにとって善き事が訪れる設定。
そうやって登場人物は、神託通りに動かされている。そして確かに良き結果が訪れる。

ただし全体で見れば、その記された世界には富の格差が生まれ、聖なるものと卑しいものと常々分断されるようになっていった。

 
物語の中心人物となる本人にとっては、なるほど。確かに恵みがもたらされているが。
長期的に見ると、争いの種は一向に増えるばかりだ。

 

不思議だ。

信者として、信心深いことは誠に善きことである。
己の欲を悪とし、自身に責務を課して「〜なければならない」と自らの生き方を戒めるのも。
そうやって悪の誘惑を退け、清く美しく生きようとする姿勢は立派である。

だが往々にして、そういった頑なな姿勢が、自分の意志、やりたいことを押さえつけ、心の葛藤を生み出してしまうことがある。2つの人格、もともと己自身が持っていたものと、教義や神託によってもたらされたもの。

己自身の心の内で、それらが天使と悪魔という2つの存在に型どられ、お互いが自らの半身を傷つけあう。
時折このように、自らに苦しみをもたらしてしまう。

 
 
しかもそれだけではない。
彼らは、そういった自らの生き方を他者に矯正し続ける風潮に合った。

「〜しなければならない。〜すれば、〜となるであろう」

 
といった、自らのみに託された神託を、
まるでその教えが唯一絶対のモノであるかのように
自分の家族、子孫、士族、さらには全く関係のない土地のものにまで矯正させた。

 
其の結果、どうなっていったか。
巻末を読めば、明らかだ。

 

主の意向に逆らうものは罰が下る。の意図。

個人の範疇であれ、
兄弟の範疇であれ、
氏族の範疇であれ、
そして自らの収める国の範疇であれ、

同族(自分)殺しが生まれてしまうのは、
こういった意図が引かれていたからに他ならない。

主から見える視点でのみ善悪を測り
そのものさしで世界の舵取りを行ったことで他者の意志は束縛され
主の御心のために動かされていった。

統治国家は、確実に書がもたらしたものの一つ。まさにあんな形。
頂点は操り人形、主の思うままに。
そして彼らの作った神託に巻き込まれる多くの者達。

意思を抑圧させ、思い通りに動く人形国家が出来るまでの設計図が、ここに記された。
人は個々の輝きを持つが、集団になると途端にその光を見失う。あれは盲信の為せる業か?
 

まさに負の連鎖を、その物語に見ることが出来る。
主が望むままに”彷徨える子羊たち”へと書の教えを説き、
広く、その結界を築いていったのだと。

 

 

根本的に、おかしな設定が最初の木の存在なのだけど。
最初の木に成っていたアレは、なぜそこに存在したのだろう?
決して触れてならないなら、最初から生み出す必要はなかっただろうに。

生命の木と、対を為すあの木。
何のための存在だったのか。とても気になる。