集落という概念と人々の錯覚

集落という概念は、いつから生まれたのだろう(o _ o。)

 
最初は、子どもたちの集会場だったのかもしれない。
人は自然の中で、1人でも生きていけた。

だけど皆で力を合わせれば、
それぞれの得意分野を活かして、
さらに素晴らしい時間を過ごせるようになるのだ。

 
これ、国の原型となるモノか。
おそらく最初は、それぞれが好きなときに集まって、
交流場所として、機能してただろうと思う。

 
いいよね。

ただ、いつしかその素晴らしい交流場所も
集落の中で子供が生まれ、その子供が集落での生活を当たり前に思ってしまう時。
生きるために、集団での生活に依存してしまうと、話が違ってくる。

集落の中でしか生きていけない!の錯覚は、
途端に外の自然が恐ろしく見える現象を引き起こした。

自然とは「外」の世界…
そこになかった境界線、幻影の壁が敷かれてしまった。。。

 

人が集団の中で生きなければならない時
その中で、最も優れた能力をもつ長を選ばねばならなかった。
長の判断が、集団を活かすことになるからだ。
 
人が集まる素晴らしい交流場所に、生活の全てを依存したがため、
集落という概念が生まれ、「族長(リーダー)」が生まれ、
皆が「族長」の決定に付き従うようになった。

「人が人に従う」という歪なシステムが出来上がった。

これは ⇒ うたわれるもの

をみていて思った。
戦が生まれたのは、この集落という概念にも原因があるように感じた。
集落が繁栄し、人口が増え、贅沢を尽くし、気がつけば資源を底をつく。
滅びを免れるためには、他国の資源を奪わねばならない。

 
戦が始まる。
集落に属するものは、嫌でも戦わねばならない。
自分たちの安心の為に…
 

だけど人は、集団に頼らずとも生きられることを思い出す時
里から抜け出すという自由を得る。
戦わずして、外…自然に回帰し、自然に溶けこんでひっそりと生きる道を開く。

外の世界では、自然は人と共にあり、全ての存在がパートナーだ。
ここには最初から全てが揃ってる。…食べ物はすぐ側にある。何も脅かすモノない。
本当の安心とは、何もかも拭い去ったことで、再び得られるものではなかろうか。

 
だが、集落の人間からは理解されんだろうな。
集落からは、変わり者と呼ばれるだろう。
人と交わらない、偏屈な人、得体のしれない人と呼ばれるか…

理解できないからな。
どうしてわざわざ、集落の外で暮らすのか…とね。
あんな危険な場所(と思い込んでる)集落外で暮らすなんて、意味不明だ…とね。

田んぼはない、畑はない。
食べ物はないだろ?って。錯覚。
 
 
実際は、試してみたら、そうでもなかったりするだろう。
森には森の因果応報があり、その理を理解すれば済むだけの話。
田んぼや畑など無くたって、森には食べられる物が豊富にある。生きる知恵を学べる。
集落の人が忘れてしまっただけ。集落の人は、集団から一歩踏み出す勇気が無いだけだ。

 
なぜ、集団の中でしか生きられなくなったのか。
それは、生まれた時からそれが当たり前だと錯覚してるから。
お母さんとお父さんだけが家族だと錯覚してるから。
 
 
人間の母は、人間だが、深層の答えではない。
人は、自然の土から生まれた。自然の水から生まれた。
親たる源は、土、水。にある。

 
あなたは何処から来たのか。
生まれる以前のこと、想像してみて。
繋がりを取り戻して。偽りの仮面を拭い去って。

本当の自分の居場所を、思い出してあげて。


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