現実の捉え方

自らの現実は、自分で構築する側。
現実を観る、というのは。それが実現するまでの一連のプロセスを見定めること。
描いた設計図を実現させるための未来視をすることにある。

→ ゲームを作る側、プログラマとして。

 

一方で、他人の作る現実の舞台に参加する側では、
現実を観るというのは、また意味合いが異なってくるだろう。
その現実の舞台では、どのようなルールで世界が動いているか。
その中で上手に生きるにはどうすればいいか。分析する側になるのだろう。

→ ゲームの攻略記事をまとめる側、プレイヤー。

 

自分はたぶんプログラマ、の位置づけ。
一応、現実の分析もするが、全ては形作るためだ。
攻略記事みたいなものじゃなく、コードとかプログラム構成の方に目が行ってる。

画面上に現われる現実は、一連のプログラムで成り立っている。
その歯車(コード)を一つ取り外すだけで、簡単に世界の流れが変わる。
実に、思い込みという法則を無視できるんだ。

 
常識、ルールとは、思ったほど万能じゃないわけ。
人間が作ったどのような仕組みも、自然の摂理には敵わん。

不条理な現実・常識ばかり見続けて、いいかげん従うのも疲れたでしょう?
OSはどんどん変わってくのに、未だにWindowsVistaに合ったルールなんてアホでしょう。
どうしようもない今の惨状って、想念的には時の止まった現実(=死んだ現実)に居座り続けてるから。
先祖の骨を永遠の牢獄に閉じ込めた、先代より続く責任問題。
ただし与えられた環境に固執しては、いずれ自らの責任にもなってくる。

 
まぁ、気づけたところから、少しずつ住み良い環境に塗り替えていくさ。
完全に、地盤が整えば。時があるべき形で進み始めたら。。現実を観る=動き始めた現実(=活きた現実)
万全一致で、やっと全ての、100%の力を合わせられるかもしれない。

現実に生命を吹き込む側とて、プレイヤーの声は常に必要としてる。
プレイヤーが修正された現実を分析し、リアルタイムの攻略記事を描いてくれる、

自らの絵描く発展途上の地も、それを見ながら逐一修正できる。
うちらは安心して新しい現実を描いていけるわけだ。


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