して欲しいこと、しないの

して欲しいこと、しないの。
望むものは、その対極に授かる。

 

自分が、マッサージされたいとき。
こちらから相手にマッサージするんじゃない。
寝っ転がって「ここ押して?」お願いすればいい。

温まりたいとき、安直にお湯を使うだけが手ではない。
最後に身体全体を水で冷やす。すると周りを温かく感じられる。

「愛」して欲しい時、足りない時。
欲しい「愛」をこちらから送るのは、よくある間違い。
たいてい、自分が無理して気枯れして終わる。哀しや。

 
反対をするんだ。受け手に徹する。

例えば愛するって、こちらから何かするってことだと思う。
反対の「愛される」は? じっと視る、ただ受け入れる、そして相手の存在を理解する… だろうか(o _ o。)

 
愛されたいなら
自分は、相手の存在を受け止める…受け皿に徹するわけだ。
器の大きさが問われるわけだ。

 
男の人は、従順な女性を好むという
女の人は、自分のありのままを分かってくれる人に夢中になるという

 
ふむ。。。
少し視えてくるようになるだろうか。

 
 
視る、見つめる。存在の奥底。

何かして欲しいとき、自分は空っぽの器になる。
そのまま理解し、受け入れる姿勢こそ、求められる。

 

結局は、理解すればするほど、相手の望みを適切な形で叶えてあげられるようにもなるしなぁ。。。


話すの苦手なの(o _ o。)

話すの苦手とか致命的じゃな。

まず語彙が思いつかん。
あれでしょ、これでしょ。。
あの言葉の言い回し何だったかな〜(‘ ‘*)

ちくたくちくたく。
 

ちーん(。◕ ∀ ◕。)ノ

 

 
 

そんな感じ。

 
本音は、心から直ぐに語られる。
言葉は、なぜに頭で考える?

今まで、ずっと言葉を選んできた。
お話するときも、何かを書くときも。

 
それは、ありのままに伝えきる決心がつかないことから。くる。

本心、それは、相手に伝えるべきでないと判断すれば語らず。
逆に、ここまでなら伝えられると判断した時、その境界線に応じて文脈を作り変える。

そんな感じ。

 
頭で考えていた理由は、そのまま伝えきる度胸を持てないからだ。

 
 

自信がない?

とかかもしれん。

傷つけるのが怖い?

かもしれん。

 
争いが怖い?

そりゃ、面倒事は避けたいわな(‘ ‘*)

 

よって、本心の中の、攻撃的な部分や、否定的な部分、相手に伝える必要のない、自分にとっての真実の有り様とか…は、沈黙で語るのですよね;;スルーの方向で(‘ ‘*)

 
マスターから注意されました。

「言わんと分からんやろーモン(笑」

 

まぁ、大切な人たちとの語らいならば。。。
少しずつ、少しずつ、地を出していけるのでしょうか。

 

では誰かのお話を聞いていて、本心を有りのままに伝えるとどうなるのか(。◕ ∀ ◕。)ノ?

今まで面倒くさくて「そうなんですね、そうなのかぁ」で話を終わらせてた部分(笑)が…

(。◕ ∀ ◕。)ノ「なんで? ねぇなんで!? どうして?! ねぇったら、ねぇ!」

(ねぇ、ねぇ!? それなんで? どうして? わかんない、ねぇ、なんで??)

 

あ、こりゃ・・・
幼少の子のセリフそのままではないか(o _ o。)

 
そうか、周りの人のお話の内容とか
世の中は意味の分からんことだらけだもんな。

子供の感性だと、聞きまくるよな。。。

 

大人になって、自分と無関係なことは知らんってなってからか。
自分一人で十分に生きていけるし成長もある、と判断。
違う世界のどーでもいい話とかシャットアウトだもんな。

無意味なこと(自分と無関係なこと)で延々と話を聞くのは面倒くさい。
いつの間にか沈黙、聞いたフリ、言葉喋らずだったわけか。そうかそうか。

 
本音を語れない理由、こちらから伝えきれない理由。勇気が持てない理由。
それ「おっはなっししよーー!!!!」って心が全然足らんかったわけか。


魂は自由なるもの

変わることを望まないのが、怠惰。

だとすると、自分の考えを100%押し付けるというのが
そういうのに当てはまるのかもしれない。

そこで成長が止まるから。変わらないことを選択してるから。

 

魂は自由だ。
そのとき、そのとき望む姿。
好きなように変化することを許される。

それが生きているということじゃないか。

変わらない世界=死体

死は、生者の養分となる
あれらは滅び行くもの、私たちの養分。

生きてるこの一瞬に、永遠を見出す。
無限に広がりゆく世界を、私たちは創像し続ける。

生きている、生きている。
私の魂は此処にある。


怠惰

怠惰の愚かさ。
怠惰の素晴らしさ。

 
怠惰の愚かさというのは「変わることを望まない」
という一点に尽きるのではないか。心の有り様。

 
学術書で、何かと錯覚めいた記述があった。
精神について解く本は、身体的なそれと同義ではない。

 
身体的な怠惰は何の問題もないのだ。
だらだらしたりのんびりしたりするのは、素晴らしいことだ(‘ ‘*)
色々なものが視えるようになるから。
流されるのも素晴らしいことだ。相手の思惑がよく感じられるから。

 
何もしないで、心を感じ取る。
今まで以上に、物がよく視えるようになるる。

おひるねおひるね(。◕ ∀ ◕。)ノ


集落という概念と人々の錯覚

集落という概念は、いつから生まれたのだろう(o _ o。)

 
最初は、子どもたちの集会場だったのかもしれない。
人は自然の中で、1人でも生きていけた。

だけど皆で力を合わせれば、
それぞれの得意分野を活かして、
さらに素晴らしい時間を過ごせるようになるのだ。

 
これ、国の原型となるモノか。
おそらく最初は、それぞれが好きなときに集まって、
交流場所として、機能してただろうと思う。

 
いいよね。

ただ、いつしかその素晴らしい交流場所も
集落の中で子供が生まれ、その子供が集落での生活を当たり前に思ってしまう時。
生きるために、集団での生活に依存してしまうと、話が違ってくる。

集落の中でしか生きていけない!の錯覚は、
途端に外の自然が恐ろしく見える現象を引き起こした。

自然とは「外」の世界…
そこになかった境界線、幻影の壁が敷かれてしまった。。。

 

人が集団の中で生きなければならない時
その中で、最も優れた能力をもつ長を選ばねばならなかった。
長の判断が、集団を活かすことになるからだ。
 
人が集まる素晴らしい交流場所に、生活の全てを依存したがため、
集落という概念が生まれ、「族長(リーダー)」が生まれ、
皆が「族長」の決定に付き従うようになった。

「人が人に従う」という歪なシステムが出来上がった。

これは ⇒ うたわれるもの

をみていて思った。
戦が生まれたのは、この集落という概念にも原因があるように感じた。
集落が繁栄し、人口が増え、贅沢を尽くし、気がつけば資源を底をつく。
滅びを免れるためには、他国の資源を奪わねばならない。

 
戦が始まる。
集落に属するものは、嫌でも戦わねばならない。
自分たちの安心の為に…
 

だけど人は、集団に頼らずとも生きられることを思い出す時
里から抜け出すという自由を得る。
戦わずして、外…自然に回帰し、自然に溶けこんでひっそりと生きる道を開く。

外の世界では、自然は人と共にあり、全ての存在がパートナーだ。
ここには最初から全てが揃ってる。…食べ物はすぐ側にある。何も脅かすモノない。
本当の安心とは、何もかも拭い去ったことで、再び得られるものではなかろうか。

 
だが、集落の人間からは理解されんだろうな。
集落からは、変わり者と呼ばれるだろう。
人と交わらない、偏屈な人、得体のしれない人と呼ばれるか…

理解できないからな。
どうしてわざわざ、集落の外で暮らすのか…とね。
あんな危険な場所(と思い込んでる)集落外で暮らすなんて、意味不明だ…とね。

田んぼはない、畑はない。
食べ物はないだろ?って。錯覚。
 
 
実際は、試してみたら、そうでもなかったりするだろう。
森には森の因果応報があり、その理を理解すれば済むだけの話。
田んぼや畑など無くたって、森には食べられる物が豊富にある。生きる知恵を学べる。
集落の人が忘れてしまっただけ。集落の人は、集団から一歩踏み出す勇気が無いだけだ。

 
なぜ、集団の中でしか生きられなくなったのか。
それは、生まれた時からそれが当たり前だと錯覚してるから。
お母さんとお父さんだけが家族だと錯覚してるから。
 
 
人間の母は、人間だが、深層の答えではない。
人は、自然の土から生まれた。自然の水から生まれた。
親たる源は、土、水。にある。

 
あなたは何処から来たのか。
生まれる以前のこと、想像してみて。
繋がりを取り戻して。偽りの仮面を拭い去って。

本当の自分の居場所を、思い出してあげて。