静寂な心は、ありのままの姿を映す

ニュートラル。

そこ。

 

 

冷静な心、静かな鼓動

一つひとつの言葉が、ただ通り過ぎるのみ
波打つ波紋が、心に染み渡っていく。

私の想いはただ一点を見つめていた。

 
そこに留まっている。私の心はそこに留まっている。
だから、一つひとつの言葉の揺らぎが、ありのままに感じ取れる。

 

ニュートラル。

その上で、1の音は1になる。

 

 

1がありのままに映しだされる。

私は、1という存在を静かに理解していく。

 

感情0

冷静さの、底に留まり続ける。


戦うべき相手を間違えてはならない

戦うべき相手を間違えてはならない。

戦いとは、錯覚・誤解・見落としから生まれるもの。
あらゆる存在に、存在する意味があった。
力づくで、他者の存在する権利を奪ってはならないのだ。

因果応報。やったことはかえる。
こうして、自分自身の世界を否定されることにも繋がるから。。。

 
戦うべき相手…?
 
もしあるとすれば、自分自身の怠惰に対してであろうか?
変わらない意識のまま年をとるとき、気づけば、時代に置き去りにされる。
自らの願いは叶わないだろう。。。

「自分の判断はまだまだ未熟」
 
この意識が、成長を見出すキッカケに思えた。

 

戦いは傲慢な手段だ。
自分がこれ以上どうしようもないことを現す。
余裕が無い時は、そうせざるを得ない場合がある。

 

だけど、思い出すんだ。
より最良の答えは、目前の存在の奥底に眠ってるということを。
今は価値を見出せてない、活用の方法を理解しきれてないだけなのだ。

 
私たちは本来、戦う必要性が無い…(o _ o。)


存在するものは、誰かにとって必要だから存在している

私の世界に必要ない・害悪だからといって
それを100%否定できる権利はない。

存在するものは、誰かにとって必要だから存在している。
何かを否定したくとも、誰かにとって必要とされてる事実を無碍にしてはならない。
そのままでは話し合いの余地を見いだせなくなるから。

 
否定の想いも元々は
「こうしたほうがもっと良くなるのに…」
個人的なプラスの願い、悪いものではない。

その訴え。愛情を持って、心から伝えられることなのも。
心を込めて、相手を想って綴ったメッセージは、身体の芯に響いてくる。きちんと伝えられる。

願いは聞き届けられる。


魂は自由なるもの

変わることを望まないのが、怠惰。

だとすると、自分の考えを100%押し付けるというのが
そういうのに当てはまるのかもしれない。

そこで成長が止まるから。変わらないことを選択してるから。

 

魂は自由だ。
そのとき、そのとき望む姿。
好きなように変化することを許される。

それが生きているということじゃないか。

変わらない世界=死体

死は、生者の養分となる
あれらは滅び行くもの、私たちの養分。

生きてるこの一瞬に、永遠を見出す。
無限に広がりゆく世界を、私たちは創像し続ける。

生きている、生きている。
私の魂は此処にある。


怠惰

怠惰の愚かさ。
怠惰の素晴らしさ。

 
怠惰の愚かさというのは「変わることを望まない」
という一点に尽きるのではないか。心の有り様。

 
学術書で、何かと錯覚めいた記述があった。
精神について解く本は、身体的なそれと同義ではない。

 
身体的な怠惰は何の問題もないのだ。
だらだらしたりのんびりしたりするのは、素晴らしいことだ(‘ ‘*)
色々なものが視えるようになるから。
流されるのも素晴らしいことだ。相手の思惑がよく感じられるから。

 
何もしないで、心を感じ取る。
今まで以上に、物がよく視えるようになるる。

おひるねおひるね(。◕ ∀ ◕。)ノ