創創造するということ(2)-技術優先主義の発明が、先代の神の作品に劣る理由-

技術優先主義の発明が、先代の神の作品に劣る理由
現代科学の在り方に、その理由を見ることが出来る気がします。

「現存する作品のロジックを解析・模倣するのでは、其れ以上のモノは生まれない」


というふうに。



以前ブログにこういう文章を書きました。


曲は、それ自体を作るのを目的とした時、作られた時点でその役目を追えてしまっている。 創造物というのは、何かを作りたいが為に生まれるくるのではない。 必ず、その先の目的があって産まれてくる。 こういう舞台のBGMを作りたい、と思った時、その舞台にふさわしい曲が出来、舞台の中で曲は生き続ける。

という一節。

ただ曲を作りたい。。。だけでは、その曲の存在理由が見いだせず、創った途端に産廃になるのがオチ。


「唯一絶対の神」を自称する、創造の真似事に必死になってる彼らの、足りない部分というのはまさに此処で。 神の模倣をしたいがために、単に創造の真似事をする。では、創造の先がない。創ったが瞬く間に忘れ去られてしまうのです。

これでは、先代の神の創造物の足下にも及ばない。


先代の神は、自らの存在の全てを賭けて、全宇宙を創造したとされる。
その舞台を通して観客に喜びを与え、自分の全てを捧げた存在を、創造の証を、永遠に形に遺すまでに至った。

深く膨大な創造への想いが、先代の神の創造物一つ一つに託されている。
私たちはそれを目にすることで、神の所業の偉大さとそれに打ち込まれた強い信念、作品の温かみに感動する。心を動かされる何かがあるから、人々の心に永遠に残り続ける。ずっと存在し続ける。


神の所業に憧れ、羨望の眼差しを向けるのも納得がいくものです。
しかし、先代を羨望するあまり、ただ形だけ真似しても何にもなりません。
神は、どうやって創造を成し得たか? そんなの本人すらも答えようがない。
ロジックを解析した所で、あまり意味は無いでしょう。


神は、創造に自らの全てを賭けた。それだけの想いを、込めた。
それほどの成し遂げたい意志の力が、神を動かしたのだと思う。

まず始めに想いありき。
創造の種は、その想像力にある。


自らが想像できないものを、どうやって創造できようか?
神の所業に憧れた存在は、その創造の原動力を、先代の創造物。既に形となった物質的な部分に求めてしまった。
そーじゃない、そんな場所に自らの想像の意図は見いだせない。

自らの想いによってのみ、創造は形を為す。




たぶんコレ、この世の真理に近い言葉な気もする。
模倣者は、この真理を踏み外した。想い無き創造の模倣では、永遠なる形を維持できません。 幻のごとく、すぐさま崩れ去ってしまうのだから。

先代の神が、創造するということに対し万人に答えを用意できなかったのは、おそらくココが理由だと思います。



このことは、人が歩く動作にも見ることができます。
そもそも「あそこまで行きたい」という想いが、自らの足をひとりでに歩かせている。

人を真似したい何かが、ただ歩く動作の一つ一つを分析し、2足歩行を模倣しても。
それは単に歩くモノマネに過ぎず、ただ歩いているだけ。歩く本来の意味「目的地に行きたい」を見失っているのと一緒。


現代の科学者たちが、どんなに神の所業のモノマネをしようと、神に近づこうとしても、そのままでは劣化になるのは必然。
モノマネでなく、真の自分が純粋に望んだ願いを、全身全霊をかけて創造を試みた場合によってのみ、その創造に真価を発揮するであろうと思う。


内面に渦巻く想いの強さが、創造物の全てを決定づける。
そこには根拠など必ずしも存在しえない。


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