創造のことば(5)-物事の分別を超越する-

良し悪しの分別がもたらしたモノ


それは戦いの歴史。
善が悪を滅ぼすという自己満足な幻想が、争いの火種を生み出した。

どちらが悪でどちらが善か。
それはまるでお互いの創造のイメージの削り合いで、
多くのエネルギーが虚空に消え去り、無駄に消耗してしまっていたかのよう。

お互いが自らの創造のみに費やせば、地上は豊かなままだっただろうに。




自己満足な物語のイメージは、近代の多くの作品の中に見て取れる。
マンガやアニメでは主人公が悪と戦い、ゲームでは魔物と戦って強くなる。
物語を戦いの中で創造しようとし、人々は戦いの中でしか興奮や面白さを見いだせない、
多くの作品が、そんなふうに錯覚されてしまっている。

で、作り手もそういうのが支持される!と思い込んでるから
そういったタイトルの物語が繰り返される。


これは、今まで歩んできた争いの歴史に似ている。
善と悪の分別がつくようになって、人は戦いの中でしか喜びを見いだせなくなってしまったのか?

これは自らが創造することを忘れてしまったがため、優位に立つには他を貶めるしか無くなったということを思わせる。 正義を振りかざし、自らの優位性を保つことが唯一の安息だった。しかし何かを犠牲にして得た安息は、直ぐ崩れ去ってしまう。やったことは必ず還る。永遠の安息は遠のくばかり。

物事を分別する知識は、人々から重要な何かを奪い去っていた。



同じように「何かを断定して説く言葉」も反省モノな感じになってしまいます。

頭の足りなさというか、思考の狭さというか。
底が見える。程度が見えるという点について。稚拙。


その考察の意図が、自分自身の改善に向いていれば、それが道の途中だと分かる。可能性を感じる。 しかし、改善を外に要求した途端、その人の底が見えました。その人の創造の可能性がピタリと止むのがよく見える、一例です。

批評家さんがいい例。思考を、自らの糧にする目的で綴ることをせず
外にこうであると説き伏せることを目的とした時点で、創造エネルギーが無駄に終わっている。 自らの正義を外に押し付けるやり方がコレ。


まるで創造することの対局にある、支配することを想起させる。 説き伏せる言葉は心に響かない。創造でない、面倒で退屈な響きのもの。

学校という場の授業が退屈なのも、日曜の礼拝が退屈なのも、そういった感性が自分に不必要だと物語っていたからだったのか。


人は、自分自身の意志によってのみ思考が糧となり、神に通ずる創造の力を磨いていくのだと。



私の取り巻く環境にも、2種類の存在があります。
好きなもの、嫌いなもの。ただしそれは、自らが生み出した幻想。
黄金のリンゴが、そのようなフィルターをかけてしまっていたのでしょうか。


フィルターを外し、有りのままを感じる。


原初の世界では全てが。全てが美しかった!
私は想像の中でイメージを膨らます。全ては美しかった!


これを思い描く時、今目の前にあるものは、全てが美しい!
そんなふうになるんだ。感じるままに。

2分化するものは何もなく、全てに於いて美しさを感じるその心が。
自分自身に、原初の地球を呼び起こす。きっとそういうことになる。


自分の認識するもの。目が向けられるもの。
全てが美しいモノであることを想像の中で創造し、自らの理想に繋げていく。


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