知ろうとするのは何のため?

自分の土地に何を植えるか?

その案を練るため、あらゆる種類の植物を調べようとした。
知ることで、その中の最善の組み合わせができると思ったから。

しかし途方もない種類を前にし、10分であきらめました(。0 _ 0。)ノ

いや多すぎるし、必要なのごく一部だし。
こりゃ立ちうちできんわ…

さすればどうするか?
やり方を変えてみる。

何を植えたいか?
そこに何が植わってると嬉しいかを想像する。

最初に、主となる一点の木を中心に定めるのだ。
その木を中心に、相性のよい木や植物たちをリスト化する。どうだ?! 
そこに何を植えるべきか、候補が一瞬で具体的になった!

学ぶという感覚は、この考え方に近いのか!

知ろうとするのは何のためか?
一点の目的を定めれれば、明確な答えがすぐに得られる!

ただ知るために暗記するのは時間の浪費に近いんだ。
子供の勉強嫌いの感覚は、ある意味正しい反応。あれは無意味だよな。

真に学ぶなら、自らの目的をもって学ぶべきだ。そして学ぶテーマは自分自身で決めたもの!
さすれば学んだものが財産だ。

私は自然を食するために学ぶ(。0 _ 0。)ノ
人は何のために学ぶ?


科学的なことば

科学的なことばは、一つの言語だ。
事の起こりを細部まで分析して、同じ規格の中で、より多くを理解し、言語化しようと頑張っている。

そして、言語化できたものだけが私たちの前に常識として認められる。

 
しかし科学的な言語ではどうしても表現できない所がある。
もし、科学的なことしか見ない場合、それで解明できてない部分を認知できなくなってしまう。

また、科学的な表現が回りくどい場合も、そのようにしか解き明かす道を知らなければ、理解にかなりの労力が必要となる。もっとシンプルな答えがあるのに…

 
科学の弱点、弱点を知ることはとても大事だ。
科学は常に過去の、事の起こりを分析することしかできない。そして、見えた範囲のものしか理解することができない。
科学の解明を待つばかりでは、物事の起こりに対していつも後手後手にまわるしかないのだ。

この世には、科学的に観測できない地点が存在しているし、例えば未来の起こりは誰にも解き明かすことができない。科学で見える部分だけで解き明かそうとすると、ある一定の線を超えて無理が出てきてしまうものだ。

まだ見ぬ未来、無限の可能性、人や生命の隠された潜在能力。解き明かすことのできない領域が存在していることを科学の視点が認めるだけで、世界は随分違ってくるだろう。

科学者は、もう躍起になってすべてを解き明かそうとしなくて良くなるのだから。

もともと学問の目的は、知ることにある。
過去の分析に科学が役立つことだってある。
でも一つの視点で知りえないことに気付ければ、別の視点にも目を向けることができる。

結果、世界の在り方はもっとシンプルに理解され、様々なことが深くまで見えてくるだろう!

 

証明。
的をめがけて放った矢が的に当たることの証明。

科学の視点は、その矢が通り過ぎた地点までしか観測できない。そして、通り過ぎる部分を綿密に分析しようとする。

ダーツの矢が的に当たるまで。
それらの距離には、常に中間地点が存在する。
1メートルだったら50センチずつ。
50センチだったら25センチずつ。
25センチの地点で12.5センチずつ。

科学的な視点で、矢が的に当たるまでの距離がどんどん近づいていく、その中間地点の様子が事細かに把握できるようになる!
12.5センチ地点で6.25センチの中間地点を分析し、次は3.125センチ…分析しつづけることの労力もさながら、しかし一体いつになったら的あたりの証明に行き着くのか…

科学的な分析を介して、証明されるまで事の把握を待ってたら、。延々に分析結果が得られるだけなんだよな…

 

真実は何処にある?
その矢が何処に向かって放たれたかに目を向ければ、答えは見たまんま!

 

 

何をどう難しく考えようが、最初から結末が予見されている。

それが何処に向かって放たれたかに意識を向ければいいのだ。


最も悲しいのはコトバが理解されないこと

まるで風の音のよう。
そのコトバに感じ入るものがどれほどか。

土に触れる以前、食べ物は食材という感覚しかなかった。
食べて美味しい、そこそこ。な感覚でしかなかった。
食べ物の背後にある光景に、ずっと気付かなかった。

なんということだ!

もし自分で食べ物を育てる概念があれば、もっと多くのことに気づけた。

食べ物は常に!
人にメッセージをくれている!
彼らの育った光景を見せて「どう感じるか?」ずっと問いかけている!

目の前にある食事が、どのようにしてどのような経路を辿って口にできたのか。

地産地消の良い所は、そのコトバが感じやすくなるところだ。
さすれば味覚はダイレクトに伝わり、イメージが湧き、感情や自分なりのアイデアが浮かびやすい。

もし感覚が鈍ってしまってたら、何を食べてるか分からなくなってしまうものだ。

最も悲しいのは、コトバが理解されないこと。

そこに生きた命は見えるのか。
食べ物の見せるどのような光景が今の自分を形作っているのものなのかは。


食べ物が見せる光景

先日、鹿さんのお肉を食べた。
一緒に柿も食べた。お米も食べた。
どれも、住んでる土地で育ったもの。
実際に近くの田んぼや柿畑、山林を見てきてるから、これらを食した時に、育まれる土地の情景が思い起こされるのです。

美味しさを味わうと同時に、世界観を感じる。食べ物からのコトバ。

鹿肉に柚子の風味が美味しければ
、自給自足の土地に、新たに柚子が生えることになります。種は食べたあとに出る。

また、このようなメッセージもしかり。
柿畑、ずっと柿畑、たくさんの柿。それ以外の果物は???

ずずーん(o _ o。)

うん、いろんな種の樹木が植わってたほうがいい。その方がずっといい!

その土地の食べ物で過ごしてると、素晴らしいこと、美味しいとこ、足りない部分、食を通して伝わってきて、色んなアイデアをくれます。

香りを感じ、味わって、育まれる光景に浸り、喜びと、思い思いの願望をその場所に付け加える。


鹿さんのお肉を頂いてます

近所の方に分けて頂いた鹿肉。
山の緑々しい風味が宿って美味しい。

近くの生きてた鹿さんを獲って、食べやすく捌いて、味噌?に漬け込んだの、生で頂いた。生肉ですよ生肉!

曰く(‘ ‘*)

美味しいだろ?
この辺の草を食べて育ってるから臭みがない、そこらのとは全く違うぞ?

あのね、鹿さんが生きてた頃の光景が、ふんわり浮かび上がります。緑を美味しく食べてたの、鹿さん。美味しい…その鹿さんの人生をぶすっ!!!!って終わらせて、私の糧になったの。

ぁあ、私の食べた鹿さんの命で、今日の一日が動くのだな。
そんな思いなのです。
貴重な一日、鹿さんから頂いた活動エネルギー、無駄にはできない思いなのです。

鹿さんは、もっと緑を食べたかった。うむ、その悲願を受け継いで、今日一日とまた、緑を植える日々となる。 

鹿さんを食べて鹿さんの願いを叶えるよう動く。何となく。