食べ物は土地の記憶

食べるのが好き。
食べ物は富の象徴。

という考えがある。
なぜそうなるのだろう?

 

それは、食べ物は記憶を宿しているからだ。
と、誰かが言ってました。

土地の記憶、土の記憶、降り注いだ雨、太陽の光
それらのエネルギーが凝縮されて、実に宿っている。

それを私達は食べている。

郷土料理という言葉がある。
地産地消という言葉がある。

それを食べることは、その土地の記憶を受け継ぐということ。

 

その場所の大地を踏みしめ、風の匂いを感じながら
その土地の食べ物を頬張るのだ。

瞬間、土地に根付いた独特な雰囲気や歴史を舌で感じ、自分の記憶の一部にすることができる。その記憶が、自らの財産となり力となる。

富の証は、そのエネルギーからきている。

 

吟遊詩人は、各地を旅歩きながら、幾土地もの記憶をその身に宿していった。
そして、その記憶を伝え歩いては、その場でお捻りを頂いて生活の糧としていた。
(と同時に、富を構築できる資産=記憶の設計図がとんでもなく増えていた)

と想像できます。

 

今もね、郷土料理を味わおうと思えば、できると思う。
現地で採れた食べ物をたべると、その土地独自の風格を、身に沁みて味わえます。

それがとても嬉しい。

 

戦後、大量生産でぐわーって画一化するのは失敗だったね?
記憶が削がれてましたですよ。

 

はいはい、ふっかつふっかつ(。◕ ∀ ◕。)ノ
 


時計の秒針の音

生命のリズムは、それぞれが違う周波数を宿している。
人にとって、時間とは相対的なもの。

太陽のリズムと月のリズムの間で、相対的に感じ取っている。

 
木のリズム、石のリズム、地のリズム。
気のリズム、意志のリズム、血のリズム。

相対的なものだ。

 
時計の秒針の音は、まるで結界だった。
すべての生命のリズムを、一定の規格にしばりつけるような感覚。

昼と夜では時間の流れ方が違うのに。
心臓の鼓動は、そのスピードを絶えず変化させてるのに。

秒針の音は、一定間隔で刻む。
まるで電磁波のようだった。

 
あそこだけ「時の流れ」が止まっている。
ゆらぎが無くなっている。

 
故に結界。

時計の秒針の音は、生命のリズムを狂わす結界。

夏至の明朝、私は時計の針を停止させた。


偽りの神の名

偽りの神の名
というより、名が不完全なる証というべきか。

たしかにそれは事実の一部なのだが、
それを唯一絶対と思った時点で、真実からは遠ざかってしまうイイ例ですね。

 

様々な書物には、いろいろな神様の名があります。
色々な神様の名、かな文字もそう。

一音一音が神の名を型どったもであるから、神名(かな)文字って言うんですよ。
神はすべての存在であり、日本語で言えば50音全てが集うことで、日本の神名としては完全となる。

 

唯一絶対の神に名はつけられない。
名をつけた時点で、それは神の一部に限定されてしまうから。

仮に「あうん」と名付けるなら、その神は「あ,う,ん」の集合体で50音の一部だ。
「あ,う,ん」三文字は、それぞれが神の一部。
ただ、教義とか聖典の一部の記述がおかしいのは、
自分の名づけた神を唯一絶対と思い込んでしまうフシがあるところだ。

他、47文字のかな文字が迫害される瞬間ですよ。
「あうん」しか言えなくなるじゃないですか〜。

 
あうんあうんあうん〜。

 

苦しそう(o _ o。)…

まぁ、日本語の神名(かな)で例えるならこんな感じ。
唯一絶対の神とは、全て。それを分断して崇める時点で、
神の領域を縮小させてしまってるのと同じ。

 

さて、そういう見解を持ってして。
「神の名」と対話するのです。

それの意志を見る。
カイムの話で、なぜ神は「ハハウエ」という一部の「神名」を名乗ったのか?
追放前の楽園では、神は名を語らなかったのに、だ。

過去記事 ⇒ http://timelessberry.com/blog/298
 

かの「ハハウエ」は、その権力を利用して子らをそそのかしたのだと思う。
ホントは神の一部の存在である「ハハウエ」を唯一絶対、
と思い込ませることで、真実を歪めることが出来た。
 

「〜教」の唯一絶対とされる神の名は、そういう意味でまずい存在だ。
実際それが、人類の歴史において、争いを生む道具として利用されている。

 

弟アベロは、それに服従して「いい子」を演じていたが
兄カイムは、なんとなく見破っていたのかもしれない
善悪など存在しなかった場所に分別が生まれ、歪んだ世界が出来てしまったことを。

人類の歴史はそうして作られた。

「天地創造」

その意味は、格差社会の始まり。

 
正しい事実の集合体でも、組み合わせ次第では真実をねじ曲げてしまう。
本の内容を見るとき、読むべきは書かれてある事実じゃない。
その本の集合体が、何を意図して書かれてあるか?という点に注視する。

だって例え内容が正しくても、意図によっては、ここまでいびつな世界が出来上がってしまうのだから。
聖書に書かれてあることは、そのことをも含めて教義となっている気がする。

あれは私にはパズルに見える。
あれは、そのままの形では真実をねじ曲げて解釈しかねない。
あれは、わざと誤解しやすいような言い回しで書かれてるフシがある。

それが今の世界の有り様を示していると思えば、疑いようがない。


無料レストラン

そこにはレストランみたいなものがある。
人の作ったモノより、もっと以前から存在してた。

今も私たちの目の前にあるのだと思う。
でも、多くの人達が気づかないまま通り過ぎてるのだと思う。

今は、もっとわかりやすい形で人が作った「レストラン」がたくさんある。
だから、そこに人が流れていく。参拝するにつれてそれが習慣化すると。
少しずつ、以前あった原初の形態を忘れてしまうのだろうか。

 
飲み物はミネラルウォーターを買うのだ。
これも、人が作ったレストランの恩恵だと思う。

惣菜は店で買う。
これも、人が作ったレストランの恩恵だと思う。

ご飯もレトルトを買う。
これも、人が作った…

 

水は、以前はそこにあった。
今も目の前にある。雨水。

惣菜は、目の前にある。
春は、野草が美味しい季節。

ごはんは、山や海にいく
木の実や魚が捕れる。

 

今、目の前にあるもの。
それを、いろいろなモノたちが見えなくする。
お金が使えなくなった時、目の前の自然の恵みを思い出させてくれる。


HTML直打ちは良い

前回の記事と照らし合わせると
HTML直打ちはすごくイイ。

HTMLは根本の記述にのっとってるから、
サーバー側の技術仕様に影響されづらい。
あと、更新を考えなければ管理がとても楽。

ブログ形式は、生きてる間は良いですね。
でも時間が止まると、色々厄介。

 
逆にサイト形式は一個一個の更新は重いけど
そのままの形で残りやすい。というメリットが浮かびました(‘ ‘*)