お供え物のほんとうの意味

供物。主に神仏にお供えする物。食べ物。
これは、神様や仏様の為に一方的に捧げるものではない。
 
 
神様に食べさせる、という視点を変えてみる。
古来では八百万の神といって、ありとあらゆるモノに神が宿ると考えられていた。
私達にも、土にも、木にも、水にも、そして食べ物にも。

 
収穫した作物は、形の良い1割を残すでしょう?
あれは自然の神様に捧げるための供物とも見れるけど、そうじゃないですね。
大地に食べさせて、新たな種を根付かせて、来年もまた立派に実りますように。

そこが本来の目的ですね。

 
食べ物のお供えも、一方的に神様に捧げるのでは無かったのです。
発酵という考え方があったのですよ。お酒も漬物も味噌もお米も。
当時の目に見えない神様の名を一つ現すと、おそらく私達には乳酸菌という言葉で通じる。

その見えない一粒一粒の粒子に、食べさせるのです。栄養素を。
そして発酵させる。そしたら、その供物がさらに美味しくなって返ってくる。
コレを、古代の人は知っててやってたんだと思います。

 
こういった体験を経て、そこに気が付きました。

http://goldenflower.jp/blog/2329

 

現在、供物については一部で誤解されてるフシがあるような気がする。

生贄とか? 自らが犠牲になるものではないと思えてきます。
邪神だったら知らん(‘ ‘*)

一方的に捧げて、ゴミにしてしまうようなモノはお供えとは言わない。
誰もそんなムダなことしない。捧げた品物に対して失礼に値する。
決まり事みたいにお供えお供えでなく、本来の目的を忘れてはならない。

自らの成長を祈って、神(菌?)に介して、醗酵させて、再び大地に根付く。
自分たちのために、身を清めて自ら熟成させる、という考えに至るはず。

皆のために供物が犠牲になるというのはお供えではない。
自らが望んで、成長するべくして神に供え、身を清めていたのだと感じます。

 

神様の一部は…
見えない菌…

 
ありとあらゆる物に宿る。

 

 

なるほど。現代の風刺画、見た。
殺虫剤、抗菌剤、薬剤、洗剤、溢れていた。

。。。

思い返せばコレって、節分の豆撒きの話と重なるのですよね。

鬼は内、福も内

 
云うなら、皆さん知らずに神殺ししてましたよと(‘ ‘*)
そしてキリストでいうところの禁忌、偶像の神を崇めてましたよと。

「”It is done.”(やっちゃったわ!)」

 
そんな感じになるのでしょうか。大変ですね…

 

神様は身近にいるんですね。
もっと活用してあげると喜ぶと思う。

みんな対等な関係なんだから。


木の年輪の音

これが自然のなせる音楽の姿なのか…(‘ ‘*)

http://whats.be/4676


存在の起点を観る

存在の起点を観る。
それが存在してる理由を観る。
その人の意志を観る。

骨の形
音の形

 
はっと気がつけば
このような言葉を思い出しました。

「殆どの人は雰囲気でしか判断しない」と
「だいたい9割ね。顔の表情や服装、表層のオーラで判断する人が殆どね」
「ほんとうの意味で、その人の存在を見てる人はとても少ないの」

 
そういえば、私もそうだな…
と、思いました。

顔の形、表情、雰囲気で人となりを判断している。
服装や言葉遣い、周りの付き合ってる人、所属してる場。

それで判断してるなと、思いました。

 
確かに、表向きそれで判断は出来るのです。
ただし、見えてる部分はその人の一面でしか無い。

付き合う人が変われば、人柄も変わるように。
職場が変われば、自分を取り巻く状況が変わり、自分の有り様も変化するように。

表層のオーラ、雰囲気、表情の作り方で判断できるものとは、
直接的で一時的なものなのだと。思い直しました。

 
その人の本当の姿を観るにはどうすればいいのだろう。
すると、記憶の中で確かに聞いていたのです。

「骨の形」
「観るのは想い」
「思いの起点は、腹の内」

 
人は、自分の意志で生きる時
本来の姿に立ち返る。

古代では、嘘が通用しなかったのでしょう。
けして、隠れて悪さは出来なかったのです

 
だから、かつてより奴隷制度が作られたのかもしれない。
自分が自分に嘘を付いているとすら気づかないような
言われたとおりにしか動かない人形。

彼らを使えば、隠れて裏で操作して、悪事が出来るようになるから…

 
表層ばかり見てたら、その人の本当の想いは見えないけれど。
そこに気づいた時、少なくとも自分の周囲に嘘は無くなるでしょう。

もっとクリアに、周囲が見えやすくなると思う。
すべてが明るみに出れば、因果応報が分かりやすい形で返ってきます。


永遠の生

まるで当サイトの物語の副テーマ。みたいな?
姉妹サイトにて、このような記事を書きました。

http://goldenflower.jp/blog/2270

 
これは、前回の記事でも書いた「醗酵」の瓶の様子を
人の寿命に見立てた記事です。

現代の人は、何もしなくても125年は生きられる構造に成ってるのだとか。
そういったことを基準に、さらに寿命を伸ばす方法について考察してみます。

題して永遠の生を得るアイデア。

 
瓶の中は玄米と水と塩。
これは、人の体ではDNAと水分とミネラルに置き換えることが出来る。
瓶が人の器ね。肉体ね。

瓶の中で醗酵を続けることが人として生き続けること。
醗酵が止まったら生命活動を終える。

そして中の溶液が、これまでの人生の証として残る。
「人生の記憶」を宿した水。

乳酸菌の瓶で醗酵を続けるなら
そこに新たな玄米を足すのですよ。
その玄米はどこから来るかというと、一度玄米(DNA)を土に還して
大地の恵みとお日さまと水の恩恵を受けてすくすくと育った稲穂から、新たに補うことが出来ます。

生と死の循環の中に、ヒントが有るのですね。

此処でのポイントは、醗酵を終えた溶液はいったん役目を終えるが
その前に、生きてるうちに玄米を2手に分かれさせる…
つまり、瓶の中で醗酵を続ける玄米と、土の中でDNAを増やす稲穂と同時に存在させることで

乳酸菌の瓶は若さを保った状態で、生を永遠に循環させることが出来る様になる。

古代、人々は1000歳近くまで生きていた。

ことが聖書にも書かれてるけど、本当にそれくらい生きて当然なのかもしれない。

私達のDNAは、それのみでは細胞分裂に制限がある。
けれど、一部死ぬことで土に帰り、種が発芽し、実がついて、
新たに実った新鮮なDNAが器に戻れば
もしかしたら…

そういえば一時期STAP細胞なるものが話題になりましたね。
あれ、稲穂を育てて新しい玄米を補うという例えでいいのかな?

今、そんなことは到底不可能なように思われるけども。

もし、生をもつDNAと、死して土の中で育つDNAと、同時に存在することができれば
両者を両方共自分として意識を保てていれば、永遠の記憶を保持できるかもしれない。

瓶の中だって、新しく実った玄米を土の世界から補ってくれば
同時に、今瓶の中にある玄米の一部を、土に埋めて育てることができれば

醗酵は延々と続くのですから。

人に置き換える手段はよくわからないけれど、
実現は可能なのかもしれない。

 

あくまでも死の世界(土)において、
稲穂を育てる大地の恵みと、太陽の光と、水が必要なのですけどね。

永遠の生は彼らがもたらしてくれるものだと思ってるの。

 
おそらく古代の平均寿命は、今よりもっと長かった(o _ o。)


醗酵の起源

色々と通説はある。

お酒は、はるか古代から存在していた。
現代文明のもっと以前から存在していた。
なぜそれが作られるようになったか。

考察の一つを記しておこうと思う。

 
古代では「収穫物の一部を自然に捧げる」風習があった。
来年の種まきに備えて、全てを収奪するのではなく、一部を残しておく。
そうすることで、来年もまた実りある年になる。

という、極当然のことをしていた。

 
古代の人々は、現代の方たちよりも見えない存在の影響(微生物や宇宙的緩衝のこと)
を、当然のように知っていたであろうから。
そういう意味では、古代の人々ほうが賢かったであろうと思う。

ある時、収穫した一部を自然の神棚に捧げる際、それがどうなっていくのか。
じーっと観察する人が居たのだろう。たぶん、集団のリーダー格の人。月詠の人。

葡萄でも、お米でも、麦でも。

じーーーー。。(o _ o。)

 

すると何時しか、何かスゴイことになったー(。◕ ∀ ◕。)ノ
とか、つまりは醗酵が起こって、その有用性がすごくて
当然のように皆に受け入れられたと。
古代の人々にとっては、自然の力がもたらした恵みですね。

独り占めせず、収穫物を生み出してくれた大地に感謝して一部を捧げる。
そこから生まれたものだと、感じてます。

私も、最近育ててるものがあって
お米を全部食べるのじゃなく、一部を瓶に捧げることで
瓶の醗酵が急激に発生するようになりました。

これ ⇒ 玄米乳酸菌の育て方
 

現代の人はどうかな?
収穫物は、全部独り占めしてない?
きちんと一部を自然に返してる?

古代の人は当たり前のようにやっていた。
私達も見習うのです。それが自然の行いですね。