夢の情景に隠された言葉

一個前の夢の記事。

あれ、あの時出会った天然石が見せてくれた情景だったのだろうか?
と思った瞬間、こんな言葉が流れ込んできました。

「人は、自分の内にある記憶の中でしか存在を感じることが出来ない」

 
どういう事かというと、私の見た断片的な情景は
それは私が認識できる範囲で、私というフィルターを通して映った情景。

本当は、石が何かを伝えたかったとすれば
表面的に目に映る情景を「真実」とするのではなく
底に隠された意図に目を向ける必要がある。

 
なぜいつも行ってる裏山が出てきたか?
おそらく、私の知る範囲でそこが一番存在が近かったからだ。
石は裏山の天辺という位置から、其処に意図する言葉を伝えようとしてくれている。

そこから続く狭い洞窟の先で、原石が埋まっている。
これは、私の記憶にあるラピスラズリ館の情景に続いている。

そして、私を其処に連れて行ってくれた人たち。
あれは、その人達じゃない。その人に近しい存在であると思い直す。
たぶん石さんが私に分かるような姿でやってきた可能性もある。

何となく思う。
楽しそうな感じだった。

 

夢は誰かの思念も影響を与えるだろう。
それを読み解くのは、自分自身のフィルターだと、
でもって、より的確な場所にたどり着くには
フィルターを外して考える必要もある。

記憶にある情景だけが全てではない。
石は違う時代を生きても居るのだから。

あれはガーネット。
火をイメージさせる石。

そういえば昨日は、火星が接近してた日だった。


石たちの夢

久々の夢日記。

降り立ったのは裏山だった。
裏山にはいつも行ってるが、そのときは

「◎◎◎(えらいひとw」さんと一緒に連れてってもらった。
なんと。ヘリコプターで。

そしたら、ヘリコプターでしか行けない天辺に降り立って。
其処から入れる秘密の洞窟があったのです。

ん?
こんな場所があったのか?

 
入って行くと、

「この辺りマグマで焼かれた石があるんだよ。宝石みたいに」

と言われてて、でも見えない。(なんでそんな詳しいんだろう?0

しばらく歩くと、ものすごく狭い通路に出た。
太ってる人は通れないよ(。◕ ∀ ◕。)ノ

頑張って通る。
すると、その壁には行く種類もの宝石(の原石)が埋まってるのです。
この壁だけ異様に違う雰囲気だった。キレイだった。

狭いけど。。

 
赤色の石を一つとって、通り過ぎました。

ら、なんか其処は博物館の裏口(通行禁止のロープがあった)につづいていた。
あららら。。こんなところにつながってる。

よしよし、あの場所に行きたければココを通ればいいな。
なんて思ったり。

 

帰り際、何やら別のルートを通るようであの場所には戻らなかったけど
えらく鮮明に覚えてる情景だったなぁ。

あの方達は、こういった道を知ってるんだな〜とか。
どうしてうちを連れてってくれたのかな〜?とか。

 
ルートを知れるのは良いことです。
次はヘリでなく飛んでいけるわけだし。

 

あの壁の石たちは、石が見せてくれた情景なのかもしれない。
そういえば、あの方たちのお家には、立派な石が飾ってあった。

アメジストだ。


芸術は創造の導き

人の評価というものがある。
これは、大して重要なものではない。言わせておけばイイ。
作品としての良し悪しもどうでもいい。
 

アートの根本には、表現したいという想いがある。
その想いの種が、想像上の海に響き渡り、
現実に再現するものとして結果的に出来上がったモノ。

それが作品。

 
人は作品を見て、それに心打たれたり評価したりする。

真に意味を成すのは、その人が表現したい想いの部分を見ること。
それによって、作品をとおしたコミュニケーションが生まれる。

 

作品の出来しか見なかったら、上手い下手でしか判断しないじゃないですか。
でも、そんなところで判断しても無意味。

それって単にソフトの慣れの問題だし、技術的な問題。
私がLOGICに転向して直後、音の表現がうまく出来なかった例からも。
其処は後からいくらでもカバーできる部分。

子供の絵が未熟だと、侮る事なかれ。
 

見てほしいのはもっと根幹です。
想いなくして芸術足りえず。

 

その作品の在り方は、表現者の想いで決まる。
誰もが本当に見て欲しいのは、其処だと思う。


バーチャルアクター

もし私が〜だったら・・・
もしも〜だったら。私の世界はどのように変わっていただろう。

と想像することが稀にあります。

 
ココは、物語を創造するときの最初の一歩。

多分、人生とは自分のそれだけを生きてるのではなく
それまで関わってきた人や食べ物や生き物たち。
全ての存在と関連しあって存在してるものだから。

人は自分の中に、たくさんの生きた情報が詰まってて。
人は一人では生きられなくて、それはつまりその奥の数えきれないほどの存在と共に合って。

 

もし私が〜だったら・・・
もしも〜だったら。

この仮定は、私という媒体が内に宿る存在を「表現」する。にも似ている。
そのとき、内に宿る存在は、現実において生を得る。

想像が現実に影響を及ぼす。

 

すると私は言う。
これは作り物の私だ。

だから何だ。それも私だ。

0歳から100歳までの人の記憶に残るお話。
男の子の立場と女の子の立場
境遇、人生、見聞きしたこと。
限られた範囲でのすべてが私の内にあり。同時に全てが私自身である。

想像したことは、すべて現実に反映させられる。
人はほんとうの意味で一人ではない。常にそれらと共にある。

 

もしも私が〜だったら。
という人生を同時に歩むことで、積み重なる経験値は倍に膨れ上がる。

そんな夢を見ました。


新しい発見と過去の遺産

「新しい発見」と世間が騒いでるからといって
流れに乗せられるのはメディアだけで充分だ(‘ ‘*)

過去も未来も時を同じくして、誰かにとってふつうに起こってることを。
別の誰かが「さも新しい発見」のように言うのは今に始まったことじゃない。
それは本人のいる位置にとっては新しい発見なのだろうけれど。
また別の視点で言えば、すでに起こっていたこと。

すでにそこにある。
気づくか気づかないか。

 
この違いは誰にでも起こっている。
他人の用意した舞台に乗る必要があるのか?

ない。
自分で気づくことでも視野は広がる。

 

ときおり専門分野が見せる用語の難解さは、思考を阻害するけれど。
それも過去の出来事になりつつあるかも。

思考の回転が早まるとき、無駄な労力は取り去られる。
どのような技術も、誰かが独占できるものじゃない(o _ o。)

だからあの思考形態は時代遅れになるかも?
 

私は、今回みたいな報道は闇に葬られてもいいと思いました。
ほら御蔭で「存在するかも」に気づいて考察を深める人が居るかもしれない。
後はだれでも再現できるものとして、皆がそれぞれで再発見すればいいと思う。

「それは誰にでも再現できるものである」

 
何も目新しくなんて無い。
過去の技術たちは、誰も特別視されることを望んでない。
ただ、みんなに知ってもらいたいだけだと思うの。