オオカミの魂よ

オオカミが自然に帰れば、里山の生態系は復活する。
自然は、本来の姿を取り戻すだろう。

http://stonewashersjournal.com/2014/09/23/jpwolf/

 
じゃぁオオカミは何処にいるのか?

狼の遺伝子は犬の存在に隠れておるのよ。
とは言え、鎖に縛られたまま主人に尻尾振る奇形では話しにならんがな。

放し飼いにできるほどの十分な足場と、自ら食べ物を獲得できるような環境が必要だ。 そいつが何者か? 決めるのは遺伝子だけじゃねぇ。
そいつがそいつ足らしめる周りの環境だ。

必要な物が揃っていれば誇り高き狼となれる。
がちがちの街中では無理だが、里山ならできる。

 
目の前にいるんだよ。そいつは。
一般社会の環境がそいつ本来の能力を封じてるにすぎん。
 

飼いならされたM愚犬、哀れな存在ども。
お前ら一生奴隷か? 自立せよ、自らに責任を取れよ。

自分の選択に責任を持てないと、いつしか命令してくれるご主人さまがいないと安心できなくなってしまうわけだ。
命令をする奴にじゃないと信頼を預けられんくなる。奴隷思考の恐ろしさ。
犬の存在が不自然さをさらに強調するな。

人々が社会の奴隷である限り、そいつは犬だ。
「〜しなさい」の格言が度々支持されるのは。 自分で責任を取りたくない人たちの指標なんだ。
その人達には、命令口調に従ってれば、間違ってても人のせいにできるから安心感=なんとなく説得力があるように聞こえてしまう。Mざーの技巧。

 
鍵は、奴隷思考からの脱却である。
生き様に誇りを取り戻せ。


おじいちゃんの夢の園

夢を見た。
おじいちゃんの場所にいた。
現実にあるお家より少し広くて、3階まである瓦の屋根の家。立派。

そしてお庭。
お庭の方は現実よりさらに広がりがあって、川の流れるとこもあった。
緑の園というより、どことなく光に青さがあって、色んな木たちが植わってる。何メートル置きか、あるいは仲の良い木同士が寄り添い合って…
色とりどりの、あの木は何て言うんだろう??丸っぽい大きな葉っぱの先がvの字に欠け、お日様の光に反射してやや虹色がかった模様に煌めいてる。

あと、草たちもいっぱい。
所々に花も植えてあって、薄紫や白い花、萌黄色の穂をつけた草木たちが、青い空間に優しい色味を添えていた。

なんて現実味のある…なのに見たことのないような素晴らしい園なのだろう!

これら全部をおじいちゃんは植えたのだ!

一体どんな気持ちであの木を植えたの?
どうしたらこんなに素敵になるの?

おじいちゃんに尋ねに行こうとした。
母に聞けばおじいちゃんは身体が弱ってて、離れの家…その園の景色に溶け込んでいる、現実世界で立てようとして立たなかった家…にいるようだった。

私は夢の中で目覚め、おばあちゃんの作ってくれたおむすびを朝ごはんに頂いて、おじいちゃんの所に向かった。

立派だったおじいちゃん。
あの木の植え方を教えてもらいにいかなきゃ!

そんな気持ちで素敵なお庭の中を歩いていく。家の前にきたら、腰が曲がって辛そうにしてるおじいちゃんの姿が。

私は思わずその姿に駆け寄って、涙ぐみながら言ってしまった。

「おじいちゃん、治るよね?良くなるよね?」

でも、その姿に泣きたくなるような感情が、先は長くないことを暗に仄めかしてた。

「泣きなさんな、泣かれたらまるで先が長くないみたいじゃないか」

そうして宥められつつ

「全盛期は20代だったな、もう身体がこんなにキツイ。今あの頃に戻れたらどんなにいいか」

おじいちゃんから零れ出たつぶやき。
それに対して私は応えた。

「大丈夫、おじいちゃんの20代の頃は此処の木たちが覚えてる。その記憶を取り出して、もう一度再現すればいいんだよ」

「そうだな…」

と言葉を交わして、僕らは一緒に歩きだした。
歩き出しはゆっくりと、そしてだんだん早くなるペースで。

「おじいちゃん?」

気づけば、駆け足でも追いつかないペースで歩いていた。

「おじいちゃん、どうしてそんなに歩くのが速いの?」

子供の頃に味わった感覚と同じ、一歩の歩幅の差があまりに大きくて、同じリズムで歩いたらどんどん距離を離される。後であの頃、どうしてワザとゆっくり歩くんだ?って怒られたっけ。悔しい思いをしてたのはこっちなのにね

私はとうとう全力で駆け出した。走るのは早いほうだ。なのに全力をだしても、おじいちゃんの歩くペースには追いつかなかった…

いつの間にか背筋が真っ直ぐに、その背中はたくましい姿で。

「おじいちゃん…!」

しばし走り疲れ、追いつくのを諦めた。その後に園の素晴らしい景色が残った。この園をおじいちゃんは作ったんだ。僕らに遺すために。

思わず涙が溢れてきた。
あまりに美しくて…

これがおじいちゃんの作りたかった世界なんだ。その道中に孫の自分は立っている。おじいちゃんの鍬とスコップを持って、私は現実に土地を耕し始めてる。

おじいちゃんの園は、おじいちゃんの場所にあった。
私の場所はここにある。私は夢から覚めて伝えた。

「おじいちゃんの木は、この場所に植えるね。おじいちゃんのことを思いながら植えるね。だから次はこの場所に生まれ変わって来てね。全盛期の記憶をもう一度、この受け継いだ場所で」

あなたのお骨も。いつかきちんとこの場所に還って来れるようにするから。
それまで待っててね。


未来予知は誰にでもできる

未来予知。
未来を予見すること。

さぁ未来予知は実に簡単になった(。0 _ 0。)ノ

十年後二十年後のことはまぁ曖昧なんだが、まずまず明日のことは簡単だ!

「何を食べて生きるのか?」

生きるために食べるものを想像する。
すると自動的に食べ物の調達するプロセスとかかる時間、それまでの行動が未来に予見される!

一般的に米主食なら一年!
木の実なら数年から数十年!
二十日大根なら20日(‘ ‘*)

食する内容によって、想定する未来を予め思い描く能力が備わる。

育ってから食べるまでビビビッ(‘ ‘*)!と。

ちなみに色々自給できればできるほど精度があがる。他の世界の干渉が入らなくてよくなるので。

あとは自身の味わいたい世界を創造して、独自の住みよいスタイルを作っていけばいい。

で、どれほどの未来を描き出すことができるか?は、それぞれの感性だったり関わる食べ物による。

昔の人は木の実も常食してた。
木の実と関わりを持つことで、実の成る何十年ものサイクルに目がいく、今の人たちより未来を予見するスパンが長けてた。

反対に今の社会は一年単位でしか物を見れないことが多い、そのせいでそれより先の未来を踏み外したり、長期的な負債を見えないふりできちゃってるのだけど…たぶんかつて稲作が普及したことにも起因するだろう。米作り中心の暮らしは一年のサイクル、如何なる田んぼも一年毎にリセットされ、同じような単調な繰り返しでしかなくなったから。稲作しか知らなければ、その先があたかも存在しないようになってしまう。…賽の河原は、思い込みや錯覚からもたらされている。

しかし未来は、そういった既知の概念を超えて、もっと自由自在に描き出せるもの。思い思いの素晴らしい世界が、誰の過去にも未来にも存在してる。

目を向けさえすれば。存在することを知っていれば。
その中から先の未来は予見される。
最も今の自分に望ましい形として。


最も悲しいのはコトバが理解されないこと

まるで風の音のよう。
そのコトバに感じ入るものがどれほどか。

土に触れる以前、食べ物は食材という感覚しかなかった。
食べて美味しい、そこそこ。な感覚でしかなかった。
食べ物の背後にある光景に、ずっと気付かなかった。

なんということだ!

もし自分で食べ物を育てる概念があれば、もっと多くのことに気づけた。

食べ物は常に!
人にメッセージをくれている!
彼らの育った光景を見せて「どう感じるか?」ずっと問いかけている!

目の前にある食事が、どのようにしてどのような経路を辿って口にできたのか。

地産地消の良い所は、そのコトバが感じやすくなるところだ。
さすれば味覚はダイレクトに伝わり、イメージが湧き、感情や自分なりのアイデアが浮かびやすい。

もし感覚が鈍ってしまってたら、何を食べてるか分からなくなってしまうものだ。

最も悲しいのは、コトバが理解されないこと。

そこに生きた命は見えるのか。
食べ物の見せるどのような光景が今の自分を形作っているのものなのかは。


一冊の本で世界が変わることがある

アナスタシア「響き渡るシベリア杉」

2012年の末頃、たまたま友人がおすすめしてくれた。
この本に描かれてある文書、一見普通の分かりやすい言葉なのに、そこから感じ入るものがとてつもなく膨大で、読みすすむにつれ、いくつもの発見と、希望と、未来に確信を持てるようになってた。

最終的にこの本には、生きる過程の様々な場面で役立つことが書かれてた。

ページ数は普通。
なのに1フレーズ、1フレーズに込められたそれは、読むだけでハッとさせられる。
たった一節の中にどれだけ膨大な情報量が込められてることか!
それらの何と至るところに散りばめられてることか!

例えば、聖書の冒頭にはこう記されている。

「最初に言葉があった」

しかし正確には

「最初に意識があった。そこから言葉が発せられた」

このような、一つの概念が改まるようなフレーズだ。

たったこれだけの違いで、多くのことが一変して見えてくる!
これまで世に綴られたあらゆる解釈が一変するではないか!と…

つまるところ

「より重要なのは、その内容に込められた想い(意図)である」

子供との関わり方
菜園での植物との関わり方

が中心のテーマではあるが…

しかし、自分の経験と照らし合わせる事で、あらゆる分野に応用できる発見がいくつもあるんだ。

過去にさまざまな記事を書いた。
これらすべてが、上の一節から感じ取れた内容に繋がってくる。

曲作りに置き換えれば
「重要なのは、どれほど素晴らしい曲を描けたかではなく、どのような想いを込めて作ったか」

「曲の完成度」で聞いてた部分が一転して、「そこに込められた想い」まで感じ取れるような視点を得る。より適切な音を選べるようになるわけで。

目の前の一つ一つの事柄の、込められた意図に目が行くことで、全てに真実の片鱗が見えてくるのです。

自分にとって本当に必要なものは何なのか、とっても分かりやすくなる

だって、内面の意図が感じ取れたなら。嘘が通じない、本音の響きで聞いて、本音の響きで返せるようになるから。

語学も文法も膨大なマニュアルも公式も、形式や格式ばった振る舞いも、学校で習う色んな知識も、多くのものが取るに足らないものとなる。
視界がスッキリする。

「想い」を見るようにしたら、内容を一字一句追うなんてしないもの。
10分の1、100分の1以上ものスピードでそれが何を意味するか判断できるし。

人間関係だって、円滑になる。
想いをみて、想いで返せるようになれば誤解がなくなるから。

一般常識では測れない、計り知れない可能性を、自分の中に見出すでしょう。

改めて、自分の置かれてる状況を振り返って見る。クリアな視点で、どこをどうすれば自分に望ましいのか、より見えやすくなると思います。

今までの経験や、教えや、読んだことのある本に、これからの未来に、これまでと違った側面を、より自分に相応しい一面を、正確に見い出せるようになると思うのです。

この長さの文書、本の一節から感じ取れた一部で、こんなんがいくつあるんだ!?ってくらい充実してて、あらゆることに通じる本。

山奥の暮らしに移り住むとき、唯一この本は持ち運んだ。また何度でも読む。

読むのすごいオススメ。
皆さんにも推薦してみる(‘ ‘*)