一日一日の記憶は永遠に

新しい暮らしを始めてから一日として同じ日がない。確実に積み重っていくものがあります。
だから、その日にあった事を鮮明に思い出せる。
そのとき、何を思ってその作業をしたか。

土地の状態が日々変わる毎に、記憶の層が蓄積されていく。

眠ってる時に見る夢もそうだけど、記憶とは、ある特定のきっかけで、ふと思い起こされることが多い。
秋の匂いを嗅げば、その季節の印象的な出来事が…音楽を聴けば、その曲が流行ってた頃の想い出が…
特定の何かが繋がって一緒に思い起こされる。それが記憶。

自分の世界をもって、自分の描きたいイメージに向かって日々進んでるとき、その工程一つ一つに想い出が宿るものだ。

今日は草刈りがきつい。
この日は調子がいい、すんなり進む。
草地が綺麗になったら土を耕していく。
そして種を蒔く。芽が出て地表に顔を出し、冬を越してその種は成長する。

雨の日はのんびり本を読んだり、そんな日も、あの子たちは日に日に大きくなっていった。

春、穂が付き始め、新たな作物の種を蒔く。
どんぐりの木も植えよう。

木は年を追う毎に大きく成長し、落ち葉を散らして土を年々豊かにしてくれる。
一年ものの作物は実り、次の種ができる。数年後には木の実が、木は何十年かを経て大樹になり、さらなる恩恵をもたらす。

そのとき、きっと次の世代の子どもたちが居て、これまで育ててきた世界を受け継いで、子どもたちの思い思いの楽園を築いていくだろう。
大きな樹木がいくつもの種にわたって伸び、世界は色んな種類の実を成して、美しい鳥達や動物たちを呼ぶかもしれない。

現代人の一生では追いつかないほど気の遠くなる話だけど、思い描いた夢に向かって確実に進んでいる。
始まりの時から一日として同じ日がない。

そのことを、実際に目の前にして感じ取れる。
だから振り返ったときに、その記憶の一つ一つが鮮明に思い出される。

あのときはこうだったね。
あんなふうに想いながら植えていたね。
今、立派に実をつけたよ。ほら。。。

人の一生は、きっとそういうものだと思う。
一日一日が新しく、未来の実現に向かって少しずつ進んでいってる。
だから日々喜びがあり、人生が充実して行くのだろうと。

私の一生は、共にある世界そのものが記憶する。
振り返れば、いつでも思い出せる。


用意された選択肢以外に目を向けよう

普通に生きてたら、なぜ望む人生がやってこないのか。
原因はとってもシンプルだった。

世界中のあらゆることから自分で探し出すこと(望みに目を向けること)を忘れてしまってるからだ。

気づけば与えられた選択肢に甘んじてばかり…とか、あかん。最初から与えられた選択肢しか見ないで選ぶというのは、自分で人生を決めているようで、実は誰かさんのレールに沿って動かされてるに過ぎない。

世の中便利になっている。
お金を出せば何でも手に入る、という風潮。
だけどもそれは錯覚で、並んでる商品棚の中からしかモノを選ぶことができない状態。ずっと既製品に慣れていくと、自分で一から創り上げることを忘れてしまうの…
社会は、誰かの作ったものに縛られて生きていかなくちゃならなくなった。

食べ物は、コンビニやスーパーで買うしか選択肢がなければ、保存料ばかりの機械的な食品がほとんど。。でも現実には自分で野菜や穀物を育てることができて、そうしてできた実はすごく美味しいし、身体を元気にしてくれる。
まぁ、最初慣れないうちは大変なんだけどね…

毎日同じような選択肢で生きてると、感覚が鈍ってくるの。
日常に少し、冒険を取り入れてみるといいの。
いつもと違う道を通ってみる、いつもは読まない本を読む、違った発見がある。
すると、日常の選択肢が少し増えてくる。そんな日々を積み重ねる。。自分で知らない道を開拓していくの。大変かもだけど、そうして進んできた経験は全てが自分の糧になってく。全く違った人生を歩めるようになる。

自分から、少しずつ望んだ未来に近づいてく!


世界には、望むもの全てが内在してる

世界には、望むもの全てが内在してる

あらゆるモノが、全てが、この世界に、自分の中に存在してるのを感じた。
この世界は、インターネットの検索ページに似ている。
自分の見定めたい視点でサーチすることで、世界中の全てから狙いの検索ワードにあった情報(存在)が絞り出されるわけだ。

土地が欲しかったから土地の情報に行き着く。自給したかったからそれに合う土地に行き着く。場所も望んだその近辺に焦点が絞られる。結果、前の記事に描いていたような結果が起こった。

その土地は昔からそこに在った。
現実になかったのは、当時の自分自身というだけのこと。
なぜ、その時の自分に望みが叶わなかったのか…振り返ってみると、確信できることがあります。

望みを叶えるのに必要な情報(検索ワード)を想像できなかったこと、その一点に尽きる。

美しい世界で生きたい、この曖昧な望みをどう現実化していくか、当時は想像が難しく。だからこのインターネット上だけで、創作してたのかもしれない。
長年思い続けるにつれ、少しずつ現実的なこと、食べ物を自給することだったり、土地を手に入れるだったり、暮らしに必要な知恵だったり、そういった視点に行き着いたのだろうと思う。

望むものは、すでに存在してる。
必要なのは、そこに行き着く方法だけだ。


望んだことは現実に

これは偶然だろうか?
と考えたことがあった。

手にした土地は、自分を待っていたかのようなタイミングで現れた。

 
遠慮なく自分の進みたい方向に行くために、いろいろ制約の多かった婚約者と別れる決意をした日と、土地の売りに出された時期が重なったこと。
価格が、自分の購入できるギリギリの値段だったこと
滅多にない購入申込みが重なるや、わずかに早かったお陰で手に入れられたこと。
隣に誰も居ないこと。空き地があること。いずれ広げられること。
現状の瓦礫を除いて、求めてた条件にすべて当てはまったこと。
近くにたまたま恩師や同志が住んでたこと。
悩まされてた皮膚炎に、近くの温泉の効能がダイレクトに効いたこと。
生きた湧き水があること。

 
条件ピッタリ、+自分の意図しない部分にも望み通りの現状が。

偶然?

 

と言っても、長年望み続けてたことなんですよね。
土地は5年以上も前から。元はといえば自給自足を志してたからで、それも自分の望むような生き方をしたかったから。面倒な仕事して食べモノを得るより、生きるのに最低限必要な物(食べ物とか)を思うままに作れたほうが、後は好きなように暮らせる!
こういった前提があって、望んでた。

ファンタジーのような美しい世界で、美しい生き方をビジョンに。
現実離れした光景、新緑と空と水と草花、木の実、色とりどりの森の景観。
そんな世界を創りあげて、のんびり暮らすのです。

 
と、このサイト作って10年くらいだろうか。
そういうふうに思い描いた幻想を形にしてみたくて。
しかし現実に形にするのは難しく、ずっと夢の世界に思い描いたのを。曲を作ったり言葉を織ったりして積み重ねてきた。

感性が現実周りとズレてるの分かってたんで、そういうの気にならんように最初は独自の世界で。仮想世界は素晴らしい、ネットを通してちょっとずつ広がった感じ。
 
 
今、その夢が現実に、実際に形にできる場を与えられた段階。
始まりの一点が、この日この土地この場所で、偶然を装って生まれたのだろうって、
何となく思いの行き着く。

 
もともと望むもの
自分の世界に内在してた
すでにあった

形にできるタイミングを待っていた


月明かり、小さな音

真っ暗山道、帰り道を往く途中。
空を見上げると一面が星空だった。
都会では見えなかった様々な星が、優しく光ってた。

そもそも周りに電灯がないから。
月明かりがとても綺麗に見える。
 
月明かり
 
灯りが無いほうがよく視えるんだ。
自転車のライトをつけると、その範囲はとても眩しく照らされる。
が、ライトを消すと、その暗さに目が慣れて、道のずっと遠くまでくっきり見えるって。

そんな不思議な体験をしてから。
ああ、見えるか見えないかは、光の落差なんだって思った。
山道の暗さには、星やお月さまの優しい明かりで十分なんだって思った。

 
これまで都会でまばゆく輝いてた灯りは
そういった包み込むような夜空の明かりを見えづらくしてたんだなって。

 

そして、あたりには静寂があった。
すると今度は、些細で小さな音がよく聞こえる。
何かの気配か、木の葉のさざめく音が。

そして、たまに通る自動車の音が大きい。
何もないから、色々なものがよく聞こえ、視えるようになってた。

 
小さな変化、些細な気配、冷たさの中の温もり。
風のゆらぎ、たまに聞こえる人工物の音。

静寂に溶けて、森全体の一部として
その光、それらの音を聞いてるみたいだった。

 
この感覚は、実際に体験してみたら。誰もがそう感じると思う。
何もない暗闇に溶けていく。この話をすると、怖くないの?と知人は口にしていた。

ただ当初の、目の前が真っ暗で何も見えない不安は、その場所に慣れると色々なことが視えるようになって、視界が慣れて、むしろむしろ暗闇が居心地良く感じられるようになっていく。

この感覚。

 

逆に都会に帰ってきた時、あまりの賑やかさに驚いてしまった。
今まで暮らしてた場所が、まるで違う世界のように感じてしまった。

どちらの夜が現実で、どちらの夜が泡沫となるのか。
今は自分で好きな方を、好きな時に、切り替えていられる。

落差が、すごい。