科学的なことば

科学的なことばは、一つの言語だ。
事の起こりを細部まで分析して、同じ規格の中で、より多くを理解し、言語化しようと頑張っている。

そして、言語化できたものだけが私たちの前に常識として認められる。

 
しかし科学的な言語ではどうしても表現できない所がある。
もし、科学的なことしか見ない場合、それで解明できてない部分を認知できなくなってしまう。

また、科学的な表現が回りくどい場合も、そのようにしか解き明かす道を知らなければ、理解にかなりの労力が必要となる。もっとシンプルな答えがあるのに…

 
科学の弱点、弱点を知ることはとても大事だ。
科学は常に過去の、事の起こりを分析することしかできない。そして、見えた範囲のものしか理解することができない。
科学の解明を待つばかりでは、物事の起こりに対していつも後手後手にまわるしかないのだ。

この世には、科学的に観測できない地点が存在しているし、例えば未来の起こりは誰にも解き明かすことができない。科学で見える部分だけで解き明かそうとすると、ある一定の線を超えて無理が出てきてしまうものだ。

まだ見ぬ未来、無限の可能性、人や生命の隠された潜在能力。解き明かすことのできない領域が存在していることを科学の視点が認めるだけで、世界は随分違ってくるだろう。

科学者は、もう躍起になってすべてを解き明かそうとしなくて良くなるのだから。

もともと学問の目的は、知ることにある。
過去の分析に科学が役立つことだってある。
でも一つの視点で知りえないことに気付ければ、別の視点にも目を向けることができる。

結果、世界の在り方はもっとシンプルに理解され、様々なことが深くまで見えてくるだろう!

 

証明。
的をめがけて放った矢が的に当たることの証明。

科学の視点は、その矢が通り過ぎた地点までしか観測できない。そして、通り過ぎる部分を綿密に分析しようとする。

ダーツの矢が的に当たるまで。
それらの距離には、常に中間地点が存在する。
1メートルだったら50センチずつ。
50センチだったら25センチずつ。
25センチの地点で12.5センチずつ。

科学的な視点で、矢が的に当たるまでの距離がどんどん近づいていく、その中間地点の様子が事細かに把握できるようになる!
12.5センチ地点で6.25センチの中間地点を分析し、次は3.125センチ…分析しつづけることの労力もさながら、しかし一体いつになったら的あたりの証明に行き着くのか…

科学的な分析を介して、証明されるまで事の把握を待ってたら、。延々に分析結果が得られるだけなんだよな…

 

真実は何処にある?
その矢が何処に向かって放たれたかに目を向ければ、答えは見たまんま!

 

 

何をどう難しく考えようが、最初から結末が予見されている。

それが何処に向かって放たれたかに意識を向ければいいのだ。


最も悲しいのはコトバが理解されないこと

まるで風の音のよう。
そのコトバに感じ入るものがどれほどか。

土に触れる以前、食べ物は食材という感覚しかなかった。
食べて美味しい、そこそこ。な感覚でしかなかった。
食べ物の背後にある光景に、ずっと気付かなかった。

なんということだ!

もし自分で食べ物を育てる概念があれば、もっと多くのことに気づけた。

食べ物は常に!
人にメッセージをくれている!
彼らの育った光景を見せて「どう感じるか?」ずっと問いかけている!

目の前にある食事が、どのようにしてどのような経路を辿って口にできたのか。

地産地消の良い所は、そのコトバが感じやすくなるところだ。
さすれば味覚はダイレクトに伝わり、イメージが湧き、感情や自分なりのアイデアが浮かびやすい。

もし感覚が鈍ってしまってたら、何を食べてるか分からなくなってしまうものだ。

最も悲しいのは、コトバが理解されないこと。

そこに生きた命は見えるのか。
食べ物の見せるどのような光景が今の自分を形作っているのものなのかは。


食べ物が見せる光景

先日、鹿さんのお肉を食べた。
一緒に柿も食べた。お米も食べた。
どれも、住んでる土地で育ったもの。
実際に近くの田んぼや柿畑、山林を見てきてるから、これらを食した時に、育まれる土地の情景が思い起こされるのです。

美味しさを味わうと同時に、世界観を感じる。食べ物からのコトバ。

鹿肉に柚子の風味が美味しければ
、自給自足の土地に、新たに柚子が生えることになります。種は食べたあとに出る。

また、このようなメッセージもしかり。
柿畑、ずっと柿畑、たくさんの柿。それ以外の果物は???

ずずーん(o _ o。)

うん、いろんな種の樹木が植わってたほうがいい。その方がずっといい!

その土地の食べ物で過ごしてると、素晴らしいこと、美味しいとこ、足りない部分、食を通して伝わってきて、色んなアイデアをくれます。

香りを感じ、味わって、育まれる光景に浸り、喜びと、思い思いの願望をその場所に付け加える。


鹿さんのお肉を頂いてます

近所の方に分けて頂いた鹿肉。
山の緑々しい風味が宿って美味しい。

近くの生きてた鹿さんを獲って、食べやすく捌いて、味噌?に漬け込んだの、生で頂いた。生肉ですよ生肉!

曰く(‘ ‘*)

美味しいだろ?
この辺の草を食べて育ってるから臭みがない、そこらのとは全く違うぞ?

あのね、鹿さんが生きてた頃の光景が、ふんわり浮かび上がります。緑を美味しく食べてたの、鹿さん。美味しい…その鹿さんの人生をぶすっ!!!!って終わらせて、私の糧になったの。

ぁあ、私の食べた鹿さんの命で、今日の一日が動くのだな。
そんな思いなのです。
貴重な一日、鹿さんから頂いた活動エネルギー、無駄にはできない思いなのです。

鹿さんは、もっと緑を食べたかった。うむ、その悲願を受け継いで、今日一日とまた、緑を植える日々となる。 

鹿さんを食べて鹿さんの願いを叶えるよう動く。何となく。


一日一日の記憶は永遠に

新しい暮らしを始めてから一日として同じ日がない。確実に積み重っていくものがあります。
だから、その日にあった事を鮮明に思い出せる。
そのとき、何を思ってその作業をしたか。

土地の状態が日々変わる毎に、記憶の層が蓄積されていく。

眠ってる時に見る夢もそうだけど、記憶とは、ある特定のきっかけで、ふと思い起こされることが多い。
秋の匂いを嗅げば、その季節の印象的な出来事が…音楽を聴けば、その曲が流行ってた頃の想い出が…
特定の何かが繋がって一緒に思い起こされる。それが記憶。

自分の世界をもって、自分の描きたいイメージに向かって日々進んでるとき、その工程一つ一つに想い出が宿るものだ。

今日は草刈りがきつい。
この日は調子がいい、すんなり進む。
草地が綺麗になったら土を耕していく。
そして種を蒔く。芽が出て地表に顔を出し、冬を越してその種は成長する。

雨の日はのんびり本を読んだり、そんな日も、あの子たちは日に日に大きくなっていった。

春、穂が付き始め、新たな作物の種を蒔く。
どんぐりの木も植えよう。

木は年を追う毎に大きく成長し、落ち葉を散らして土を年々豊かにしてくれる。
一年ものの作物は実り、次の種ができる。数年後には木の実が、木は何十年かを経て大樹になり、さらなる恩恵をもたらす。

そのとき、きっと次の世代の子どもたちが居て、これまで育ててきた世界を受け継いで、子どもたちの思い思いの楽園を築いていくだろう。
大きな樹木がいくつもの種にわたって伸び、世界は色んな種類の実を成して、美しい鳥達や動物たちを呼ぶかもしれない。

現代人の一生では追いつかないほど気の遠くなる話だけど、思い描いた夢に向かって確実に進んでいる。
始まりの時から一日として同じ日がない。

そのことを、実際に目の前にして感じ取れる。
だから振り返ったときに、その記憶の一つ一つが鮮明に思い出される。

あのときはこうだったね。
あんなふうに想いながら植えていたね。
今、立派に実をつけたよ。ほら。。。

人の一生は、きっとそういうものだと思う。
一日一日が新しく、未来の実現に向かって少しずつ進んでいってる。
だから日々喜びがあり、人生が充実して行くのだろうと。

私の一生は、共にある世界そのものが記憶する。
振り返れば、いつでも思い出せる。