言葉なき対話

剣で語ったり、鍬で語ったり。
先輩の懐石を味わえたり。

言葉に在らず、何物かを通じて語られる…里山に越してきて、ようやくの体感だった。

なぜ日本人ははっきり物を言わないのか解った部分があった。

なるほど、一から十まで言葉にするのは無粋というか。

言葉の源は目の前に出されているのであり、二度手間言う必要はない。どこをどう伝わるかは受け手次第であり、それでよいのである…と。

日本語のわびさびを思う。
人は、自分の感性の範囲で世界を捉えるのが自然。

自分の世界観はこうだ!
と相手に伝するとして、言葉でも何でも双方の共感できる部分でのみ通ずるのだ。

そうすればお互いの世界観を壊すことなく、平穏な対話となる。

ようは感性の問題。
さらには実際の言葉より多くのイディオムを宿らせた対話となれる。

越してきて間もない頃、先輩の言葉は解りづらかった。
いったい何を想って言ってるのか、言葉がまるで別世界にあるかのようだった。

先輩は憂えてた。
なぜお茶を出される意味を考えないのか?と。

自分からすれば、???だった。
お茶はお茶。

しかし、出されるからには何らかの理由がある。そこを判らななければ話にならない!と…

そういえば、塔の崩壊によって人は言語の壁が生まれたという。お互いに言葉が通じなくなった本当の原因は何だったのか??

便利で快適!おご馳走!
人は美味しいとこだけ甘んじることに慣れ、裏の事情を知ろうともしなくなった。

気持ちが通じないとは、裏事情が判らないということ。
判らない人間には、何をやって(言って)も有り難みがない、無駄がね(‘ ‘*)

そして匙は投げられる。

結果、その人が意図しない方向に流され(自分で勝手な誤解して)失意のどん底に陥るとして、それは当人の感性の問題になる。

匙の心遣いが伝わらない人間に、誰が真摯に向き合えようか。

子供時代、大人からしてもらうのが当たり前になってたると、いずれの時に苦労する。甘さは毒。

人の温情は当たり前ではない。
その意味を汲み取り、応えられるようにならねば人でなし。

形式だけじゃお遊戯会…
味わう感性の学びや。


お米作りの先輩から

今日は、地元でこだわりのお米を作ってらしゃる先輩に、お家でご馳走になりました。

先輩から本を借りてた。
昭和40年代に辻さんという方が描かれたご飯と味噌汁の大善書。
そこには、ご飯と味噌汁、代々日本人が培ってきた食べ物を通じて、著者にとっての懐石料理の哲学とあらまし、職人の業を体感。図解入り。

そもそも懐石料理の起源とはなんぞや。
ご飯、味噌汁一杯の醸し出す芸術美。その土地、その時期の旬を味わってもらう。
食の魂を通じて、客人をもてなす心や。

その根幹から、四季折々に生まれるご飯の炊き方の数々、味噌汁の合わせの数々。盛る器、提供するタイミング、主人と客人との言葉なきメッセージが、ご飯一つ味噌汁一杯に込められとる。

調理方法は現代と昔は少し異なる、時代背景が違い、道具も素材も違うから。参考になるか丸ママは難しいが、しかし味わいの根幹とする部分は変わらないと感じた。

自然だ。食は、素材は、自然が生む。自然の芸術だ。
料理人は感じる心である。
料理人の感じた世界観が、料理として器に出る。
客人は出された料理を通じて、料理人の世界観を想い、その根幹にある世界の背景を想う。

今年、初めての米作りに挑戦で、先輩の元に聞きにいったわけでもなか。先輩には先輩のやり方。
私には私なりのやり方。別口。

なるほど方法如何の教授は、なされない。

代わりに、先輩はどのように自然と対話し、どのような哲学で持って日常を過ごしてるか。

どのような視点で物事を観察してるか、を教えてくれた。

手作りのにぎり寿司。
コチのお吸い物。
シメのおみかん。

急な来客にも係らず
御馳走様でした!!

 
さぁ、これだけ味わえたら後は実践あるのみだ。
山の稲作は秋が早いので、麓と比べて一ヶ月早く種おろしする。

4月だ。私もぼちぼち稲の種蒔きを行わねば。

美味しいお米を夢見る(‘ ‘*)


知ろうとするのは何のため?

自分の土地に何を植えるか?

その案を練るため、あらゆる種類の植物を調べようとした。
知ることで、その中の最善の組み合わせができると思ったから。

しかし途方もない種類を前にし、10分であきらめました(。0 _ 0。)ノ

いや多すぎるし、必要なのごく一部だし。
こりゃ立ちうちできんわ…

さすればどうするか?
やり方を変えてみる。

何を植えたいか?
そこに何が植わってると嬉しいかを想像する。

最初に、主となる一点の木を中心に定めるのだ。
その木を中心に、相性のよい木や植物たちをリスト化する。どうだ?! 
そこに何を植えるべきか、候補が一瞬で具体的になった!

学ぶという感覚は、この考え方に近いのか!

知ろうとするのは何のためか?
一点の目的を定めれれば、明確な答えがすぐに得られる!

ただ知るために暗記するのは時間の浪費に近いんだ。
子供の勉強嫌いの感覚は、ある意味正しい反応。あれは無意味だよな。

真に学ぶなら、自らの目的をもって学ぶべきだ。そして学ぶテーマは自分自身で決めたもの!
さすれば学んだものが財産だ。

私は自然を食するために学ぶ(。0 _ 0。)ノ
人は何のために学ぶ?


科学的なことば

科学的なことばは、一つの言語だ。
事の起こりを細部まで分析して、同じ規格の中で、より多くを理解し、言語化しようと頑張っている。

そして、言語化できたものだけが私たちの前に常識として認められる。

 
しかし科学的な言語ではどうしても表現できない所がある。
もし、科学的なことしか見ない場合、それで解明できてない部分を認知できなくなってしまう。

また、科学的な表現が回りくどい場合も、そのようにしか解き明かす道を知らなければ、理解にかなりの労力が必要となる。もっとシンプルな答えがあるのに…

 
科学の弱点、弱点を知ることはとても大事だ。
科学は常に過去の、事の起こりを分析することしかできない。そして、見えた範囲のものしか理解することができない。
科学の解明を待つばかりでは、物事の起こりに対していつも後手後手にまわるしかないのだ。

この世には、科学的に観測できない地点が存在しているし、例えば未来の起こりは誰にも解き明かすことができない。科学で見える部分だけで解き明かそうとすると、ある一定の線を超えて無理が出てきてしまうものだ。

まだ見ぬ未来、無限の可能性、人や生命の隠された潜在能力。解き明かすことのできない領域が存在していることを科学の視点が認めるだけで、世界は随分違ってくるだろう。

科学者は、もう躍起になってすべてを解き明かそうとしなくて良くなるのだから。

もともと学問の目的は、知ることにある。
過去の分析に科学が役立つことだってある。
でも一つの視点で知りえないことに気付ければ、別の視点にも目を向けることができる。

結果、世界の在り方はもっとシンプルに理解され、様々なことが深くまで見えてくるだろう!

 

証明。
的をめがけて放った矢が的に当たることの証明。

科学の視点は、その矢が通り過ぎた地点までしか観測できない。そして、通り過ぎる部分を綿密に分析しようとする。

ダーツの矢が的に当たるまで。
それらの距離には、常に中間地点が存在する。
1メートルだったら50センチずつ。
50センチだったら25センチずつ。
25センチの地点で12.5センチずつ。

科学的な視点で、矢が的に当たるまでの距離がどんどん近づいていく、その中間地点の様子が事細かに把握できるようになる!
12.5センチ地点で6.25センチの中間地点を分析し、次は3.125センチ…分析しつづけることの労力もさながら、しかし一体いつになったら的あたりの証明に行き着くのか…

科学的な分析を介して、証明されるまで事の把握を待ってたら、。延々に分析結果が得られるだけなんだよな…

 

真実は何処にある?
その矢が何処に向かって放たれたかに目を向ければ、答えは見たまんま!

 

 

何をどう難しく考えようが、最初から結末が予見されている。

それが何処に向かって放たれたかに意識を向ければいいのだ。


最も悲しいのはコトバが理解されないこと

まるで風の音のよう。
そのコトバに感じ入るものがどれほどか。

土に触れる以前、食べ物は食材という感覚しかなかった。
食べて美味しい、そこそこ。な感覚でしかなかった。
食べ物の背後にある光景に、ずっと気付かなかった。

なんということだ!

もし自分で食べ物を育てる概念があれば、もっと多くのことに気づけた。

食べ物は常に!
人にメッセージをくれている!
彼らの育った光景を見せて「どう感じるか?」ずっと問いかけている!

目の前にある食事が、どのようにしてどのような経路を辿って口にできたのか。

地産地消の良い所は、そのコトバが感じやすくなるところだ。
さすれば味覚はダイレクトに伝わり、イメージが湧き、感情や自分なりのアイデアが浮かびやすい。

もし感覚が鈍ってしまってたら、何を食べてるか分からなくなってしまうものだ。

最も悲しいのは、コトバが理解されないこと。

そこに生きた命は見えるのか。
食べ物の見せるどのような光景が今の自分を形作っているのものなのかは。