過去は創るものじゃない、読み取るもの

巡る箱庭のお話。

どうして、自分の中で物語が掛けなかったのか。
最近、少し分かってきた気がする。

 
かつて、何もないところから「過去」のお話を創造しようとしていた。
それは間違いだと気づいた。過去に繋がる痕跡を「今」に視るべきなんだ。

 
 
真実は、いつも目の前にある。
その一瞬が、目の前にあるからこそ、
それは真実であり、実在してる証となる。

自分がこの目で観てきたこと、自分の心で感じたことが真実であり物語だ。

 
あの時代を生きた人たちが、あの状況で何を想い、何のために生きてきたのか。
その人の感覚を、今を生きる自分の感覚として受け止めるんだ。 
人間の本質はいつも変わらない。

過去実在したという記録から、想いを、想いを張り巡らせる。
なぜ、そうあらねばならなかったのか? その人の生き様を知るんだ。
真剣に読み取ろうとした時、その人の真実が、自分の追体験としてより鮮明に思い浮かぶ。

その瞬間、その人の真実は私の真実になる。

 

遺された全てのものに、ずっとずっと昔の、過去の真実から積み重なって宿っている。
そして今ここに存在している。存在こそが真実の証だ。
私たちがこの世に存在してること自体が、過去から今までの全てを証明している。
存在に、過去脈々と受け継がれる歴史が刻み込まれてるんだ。

全ての存在が過去の遺産として視えるようになった。
奥深くへ、少しずつ(時間軸を遡って)目覚めさせていけばいいんだ。


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