自らの最善は、疑われるべきもの

人は最善だと思う道を歩む、だが、人が見えてる範囲は限られる。
限られた範囲しか観えてない中で、人は最善だと思うルートを進む。

これが意味するコトは何か?

 

人は、最善だと思ってやっていることは
実は、全くそうでもないということ。

もっと大きな視野で見た場合、それは稚拙な手でしかないのだ。もっと核心的な方法があるんだ。
常にそうだ、どんなステージに生きたとしても、さらに大きな視野で見れば、それは最善でないのだ。

 
自らの最善は、疑われるべきもの!
どのような思考パターンで、そのような結論が生み出されたのか?
結局そんなものは、大きな視野では取るに足らないのだ。
その思考に費やした全てが、取るに足らなくなるんだ。

目指してる場所は何処だ?
遥か高みから見下ろす自分とは、如何なるように映るものか。
思考の限りを尽くし、真実を見定めんとする己が光景の、なんと浅はかで取るに足らない存在だろうか。

 
苦行を重ねて真実に到達したと思っても、その深淵にはさらなる謎が隠される。
永遠に辿りつけないその場所に、実在するが故のものである。

人は、自らが最善だと思う道を歩んでいる。
しかし、それは真に最善なのではない。最も、そこに気づくことこそが最短だ。
頭が足りない自覚、探究心から、成長の因子が姿を現す。

 
道に終わり無く、さらなる高みに到達すべし。

 
そんなことを、お昼寝しながら考えていた。
台風は、そうこうしてるうちに過ぎ去った。


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