書が書き記したもの

人の一生を物語形式にし、それがリレー形式で代々繰り返される様が記されている。
感情の表現はほとんと書かれておらず、「〜が〜をした」という事実のみ淡々と描かれる。

親から子に、中心となる登場人物の舞台が受け継がれても
彼らの物語は、ほとんどが同じことの繰り返しだった。

 
男が、女を愛する。子を為す。兄弟が生まれる。
兄弟同士、あるいは複数の妾どうしでいざこざが生まれる。
それは、代々続く子孫の末裔にまで響く。

主となる存在はひとつだ。
誰が、その寵愛を一番に得るか。

そういった争いが次々起こる。

 
始まりは兄弟で。子孫の間で。
それが氏族の争いへ。

ひとたび、月の洪水によりリセット。

 
そしてまた兄弟同士、側室・愛人同士で争いが生まれる。
代が続くほどに、系譜は複雑化して、人間関係が読みづらくなる。

だけど本質は変わらない。
主となる登場人物たちは主の寵愛を得ようと、その恵みを一心に享受しようと、善き行いをしようとどの時代でもひたむきに生きていた。にも関わらず、なぜ其の周りには争いが絶えなかったのか。

 
限りある恵みを、いつまでも皆で奪い合っているかのような世界だった。
そのような舞台を描くために、書が編集なされていたとも言える。

 
 
主はしきりに告げた

「〜せよ。〜すれば、〜であろう。」

大まかにこの言いつけを守れば、当人たちにとって善き事が訪れる設定。
そうやって登場人物は、神託通りに動かされている。そして確かに良き結果が訪れる。

ただし全体で見れば、その記された世界には富の格差が生まれ、聖なるものと卑しいものと常々分断されるようになっていった。

 
物語の中心人物となる本人にとっては、なるほど。確かに恵みがもたらされているが。
長期的に見ると、争いの種は一向に増えるばかりだ。

 

不思議だ。

信者として、信心深いことは誠に善きことである。
己の欲を悪とし、自身に責務を課して「〜なければならない」と自らの生き方を戒めるのも。
そうやって悪の誘惑を退け、清く美しく生きようとする姿勢は立派である。

だが往々にして、そういった頑なな姿勢が、自分の意志、やりたいことを押さえつけ、心の葛藤を生み出してしまうことがある。2つの人格、もともと己自身が持っていたものと、教義や神託によってもたらされたもの。

己自身の心の内で、それらが天使と悪魔という2つの存在に型どられ、お互いが自らの半身を傷つけあう。
時折このように、自らに苦しみをもたらしてしまう。

 
 
しかもそれだけではない。
彼らは、そういった自らの生き方を他者に矯正し続ける風潮に合った。

「〜しなければならない。〜すれば、〜となるであろう」

 
といった、自らのみに託された神託を、
まるでその教えが唯一絶対のモノであるかのように
自分の家族、子孫、士族、さらには全く関係のない土地のものにまで矯正させた。

 
其の結果、どうなっていったか。
巻末を読めば、明らかだ。

 

主の意向に逆らうものは罰が下る。の意図。

個人の範疇であれ、
兄弟の範疇であれ、
氏族の範疇であれ、
そして自らの収める国の範疇であれ、

同族(自分)殺しが生まれてしまうのは、
こういった意図が引かれていたからに他ならない。

主から見える視点でのみ善悪を測り
そのものさしで世界の舵取りを行ったことで他者の意志は束縛され
主の御心のために動かされていった。

統治国家は、確実に書がもたらしたものの一つ。まさにあんな形。
頂点は操り人形、主の思うままに。
そして彼らの作った神託に巻き込まれる多くの者達。

意思を抑圧させ、思い通りに動く人形国家が出来るまでの設計図が、ここに記された。
人は個々の輝きを持つが、集団になると途端にその光を見失う。あれは盲信の為せる業か?
 

まさに負の連鎖を、その物語に見ることが出来る。
主が望むままに”彷徨える子羊たち”へと書の教えを説き、
広く、その結界を築いていったのだと。

 

 

根本的に、おかしな設定が最初の木の存在なのだけど。
最初の木に成っていたアレは、なぜそこに存在したのだろう?
決して触れてならないなら、最初から生み出す必要はなかっただろうに。

生命の木と、対を為すあの木。
何のための存在だったのか。とても気になる。


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